【1/10追記その2】
全く今回の記事は、私の調査不足によるところであり、猛省しております。記事を読みご不快になられた方もおられると思いますので、この場で改めてお詫び申し上げます。
皆様からの情報と、改めて調べたことを付け足して、この記事の追記をいったん終わりたいかと思います。
結論としては、「薬箱の破壊」に関する逸話は、真偽はともかく、100年以上前から既に存在していた、ということです。
元ツイートの方が資料として挙げられました、Ladybird社のナイチンゲールの伝記は、確かに当時日本で流布した伝記もののひとつです。日本での販売元のいずみ書房はふとっぱらなことに、その日本語訳をオンライン上で公開しておりますので、該当箇所を見つけることができました。長いですが引用します。
数百人の負傷兵で病院がいっぱいになると、包帯やすべての医療品が大量に必要になりました。それらの品はいつも不足していましたが、ある日フローレンスは、ホール医師が彼女が使うことを許可しない大量の在庫があるのを発見しました。ホール医師は、ここにある在庫は委員会の承認がなければ出すことができないと言うのです。
フローレンスは、委員会が3週間後でないと開かれないと聞かされると、おこってしまいました。負傷兵たちは、これらの医療品が足りなくて苦しんでいたのです。
そこで、フローレンスと看護婦たちは、びっくりしているホール医師や委員会の人たちの目の前で、医療品の箱をこわして開けました。ホール医師たちは止めさせたかったのですが、ビクトリア女王の手紙を思い出して、口出ししませんでした。
子供たちの豊かな未来を創造する、英語教材・知育開発・幼児教材 | いずみ書房 | レディーバード図書館 | ナイチンゲール
斧かこぶしかはどうもわかりませんが、ホール医師と彼女のとのやりとりが書かれています。ちなみに英語の原文は「So Florence and her nurses broke open the boxes whilst Dr, Hall and the commitee looked on horrified」*1で、やはりどのような方法でこわして開けたかは不明です。
では、どの程度昔からこの逸話があるかというと、コメント欄で指摘していただいたのですが、以下の論文が有用です。
CiNii 論文 - 19世紀の日本におけるナイチンゲール伝 : 明治期国定修身教科書におけるナイチンゲール像分析のための予備的考察
松野は、『人道之偉人』(1901)のナイチンゲールの〈薬品庫を斧で叩き壊させる〉記述が日本で初めて紹介されたものだろうと推察しています。ちなみに原文は国会図書館デジタルライブラリで読めます。
予は当時嬢に就て下の如き逸事を聞けり。一日俄に薬品の必要起れり。当時の規則は薬庫の錠は医師に賦与し,医師の不在には薬庫を開くこと能はずなれり。嬢は沈思黙考の末,命令を下して斧を以て扉を破らしめて薬品を取出だし,以て急を救ふことを得たり。
国立国会図書館デジタルコレクション - 人道之偉人
ここでは3週間云々の話やホール医師の話も出てきませんが、「斧」でぶっこわしています。この話を『人道之偉人』の作者は「ニューヨーク エベリング ポスト(New York evening post、現在のニューヨークポストのことでしょう)」の記者の話を参考にしているようです*2。作者のいう「リチャード シマツ コルミック」は「Richard Cunningham McCormick」のことと推測され、彼は1854年にクリミア戦争の特派員として派遣されていたので、その体験のことを語ったものでしょう。そのときの著書に「A visit to the camp before Sevastopol」(1855)というものがあり、ナイチンゲールとの出会いも触れられていますが、少なくとも「ナイチンゲール」の名がある周辺に、薬箱や薬庫を壊した話は出てきません。
『人道之偉人』の作者は、明らかにMacormickの「A visit to the camp before Sevastopol」を参照しているようで、たとえば
クリミヤ戦争にて死亡せし数は予は詳く知らざれども大凡四万九千人にして、内一万人は戦場にて、九千八百六十人は赤痢にて、九千百八十人は下痢にて、四千七百六十人は熱病にて、一万二百人はリョウマチ又は(後略)
という記述は、Macormickの
There are to be accounted for above 44,000. Of these it is not likely that 10,000
fell in the three engagements ; but, admit that 10,000 have perished in battle,
Deaths.
Dysentery 9,860
Diarrhoea 9,180
Fever 4,700
Cold, rheumatism, cough, fatigue, exposure, half-rations,
with hard work, &c., ' 10,200
と呼応しています(44000と49000の違いは文字化したときの誤差?)。ならばこの本の中に「薬箱の破壊」に類する逸話が載っているのではないかと思うのですが、なにせ長い文章なので、どうしても見つけられませんでした。もし見かけた方は教えてください。もしくはMacormickの別の著作かあるいは当時書いた記事か。当時の記事では、もはや手に入れる術がありません。
いずれにせよ、「薬箱の破壊」に類する逸話は、既に100年以上前から存在し、有名なクックの1914年のナイチンゲールの伝記にも登場するほど、よく知られた逸話だったようです。まことに不勉強で恥ずかしい限りです。
しかしながら、やはりこの逸話は「史実」と呼べるほどの信憑性を持っているのかどうかは、まだ論考の余地があるように思います。Marcormickが実際に見た話ならば一次資料としての価値があるとは思いますが、『人道之偉人』の中では「予は当時嬢に就て下の如き逸事を聞けり」と伝聞で書かれていて、不確かです。しかし、とりあえず調べられるところはここがもう限界です。残念ですが現段階では真実は藪の中です。
繰り返しになりますが、今回の記事は拙攻で調査不足を露呈した形になりました。改めてはてぶ等でコメントを下さった方々にお礼を申し上げると共に、憶測で不快な思いをさせた皆様には、お詫びを申し上げます。以後、襟を正して、より慎重になりたいと思います。
【追起その2終わり】
【1/10追記】
このエピソードの英語圏について見つからなかったとしましたが、はてぶのご指摘で存在しました。
Inspiration from Lives of Famous People - Azhar Saleem Virk - Google ブックス
2003年のもので、著名人の逸話や言葉を集めた本のようです。どうして見落としたのかと責められても弁解のしようがございません。以下のようなエピソード。
When the purveyor’s office was filled with warm clothing kept from the men because a signature was missing, Nightingale seized an axe and broke open the cases.
「暖かい衣服があるのに署名がないために隠されていたとき、ナイチンゲールは斧でこじ開け押収した」といったところでしょうか。ホールのくだりはありませんが、そういうエピソードは存在しているようです。
ただ、この著者もそのソースを示しておらず、書類を大事にしたナイチンゲールの行動としても違う気がするのは、やはり本論で展開している通りです。
しかしながら、このひとが創作したのでなければ、必ずどこかでこのエピソードが広まっているはずなので、英語圏についての調査はもう少し慎重にすべきだったと思います。ツイートしたかたもどこかで見られたのでしょう。申し訳ありません。取り急ぎということで追記しました。また何か見つければ追記します。
【追記終わり】
なんだか最近、歴史上の人物や文学者のトリビアがツイートされているなあと思ったら、あれなんですね、そういうゲームアプリが人気なんですね。今日はそんなナイチンゲールの話。
togetter.com
コメントを拝借しますと、
ナイチンゲール「薬が足りないのでこの箱の中にある備蓄を出してください」
医療長官「委員会の許可が無いと開けれないよ。次の委員会三週間後だけどね(ざまぁ)」
ナイチンゲール「(無言で斧を振るって箱を叩き割る)」
医療長官「(絶句)」
ナイチンゲール「開きましたので持って行きます」
とのこと。うーん、天使というにはなかなか豪快な逸話です。
しかしながら、逸話というものは常に誇張され、いいように解釈されてしまうのが世の常ですので、わざわざ「史実」と銘打ってありますが、果たしてそうかなあと思いながら丁寧に調べてみました。
続きを読む