読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

母の日はどうやって日本に広まったのか、人類はみんなマザコン

国内ニュース 元ネタ探し

f:id:ibenzo:20160508041541j:plain

 

5月8日は母の日です。みなさん、親孝行してますか。

日本ではずいぶんと一般的な記念日となっていますが、その由来ってなんなんでしょう? 調べてみると、有象無象の「由来」サイトがひっかかります。

rubeusu-trend.com

torend7.net

これらのサイトの情報をまとめると以下の通りになります。

 

①アメリカのアンナ・ジャービスが亡くなった母のために白いカーネーションをつけた/捧げた行動がきっかけ。

②1914年にアメリカ連邦議会が5月の第2日曜日を「母の日」とする法律を制定した。

③明治末期からキリスト教系の団体を中心に「母の日」が行われるようになった。

④1931年には大日本聯合婦人会の結成がきっかけで、皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日が「母の日」と決まった。

⑤1937年に、お菓子メーカーの“森永製菓”などが、「母の日」をアピールする行動を開始する。

⑥1947年には、アメリカの影響を受けて、3月6日の「母の日」が公式に5月の第2日曜日に変更された。

 

さて、うるう年のときもそうでしたが、こういう「由来」は調べるのがやっかいな分、コピペであっという間に広がっていくものなので、疑わしく思いながら調べてみるとことにしました。今回重点を置いているのは、「母の日が日本でどのように広まっていったか」という点についてなので、古代ローマとかそこまではさかのぼりません。

 

 

***

 

1.アメリカで「母の日」が制定された経緯

 

日本の「母の日」はアメリカ式のようなので、簡単にアメリカで「母の日」が制定されたわけをさらいたいと思います。

比較的ネットで信用できる情報としては、以下のブログがありました。

blog.goo.ne.jp

白百合の先生で、ご専門は英語のようですので、情報はある程度確かかと思われます。彼が参考にするといいよと言っているのは「West Virginia Division of Culture and History」というホームページに歴史的背景が載っているそうなので、そちらも参考にします。公式のmuseumなので、信頼度は高いでしょう。

www.wvculture.org

www.wvculture.org

 

まとめるならば、経緯は以下の通り。

 

○Anna Jarvisという婦人活動家が、同じく市民戦争などで活躍し、1905年5月に亡くなった母親のAnn Jarvisの追悼集会がウェストバージニアのAndrews Methodist Episcopal Churchで開かれた*1

○そのときに参列した人に白いカーネーションが贈られ皆が身につけた。白の理由は「やさしさ」「純潔」「忍耐」を表すとともに、母親の好きな花だったからである。

○Annaはその後、1912年にthe Mother’s Day International Associationという団体を作り、「Mother's Day」を広めようと教会団体や政治家に手紙を書き、彼女の運動はアメリカのみならず諸外国に広まっていく。

○1914年に、ウィルソン大統領によって「Mother's Day」が正式に国の祭日として制定される。

 

よく、「少女が亡き母親のために・・・」みたいな説明をしているサイトがあります*2が、Annaは1864年生まれなので、母親が亡くなった1905年は41歳。とても少女と呼べる年齢ではありません。まあ、小さい女の子の方が、話に箔がつきますけど。

 

2.日本で最初に「母の日」が祝われたのはいつか。

さて、ここからが本題です。日本の「母の日」がいつから始まったかについて、朝日新聞及び読売新聞の全記事検索から、該当記事を探してみました*3

 

新聞に初めて「母の日」という言葉が登場するのは、1918年5月13日。朝日新聞紙上に、「出征米軍司令官」が「全米兵」に、「母の日」に「各自其故郷に書簡を送らん事を求め」る命令を出した、ということが書いてあります*4。このときに「母の日」がどれほどの認知度だったかはわかりませんが、アメリカの風習、ということで知っている人はいたのかもしれません。

 

次に登場するのが、1926年6月24日。皇后の誕生日である6月25日の「地久節」が国家的な祝日になったことを受けて、「「母の日」の催しを企てる」ことになったと記述があります*5

 

むむ?皇后の誕生日を母の日にしていた、という記述はこれまでの由来と一緒ですが、日付が違いますね。

 

さて、これはなぜならば、1926年はまだ大正時代、皇后は貞明皇后になるので、そりゃ誕生日は違いますな。ということは、有象無象のサイトでまことしやかに書かれている「香淳皇后の誕生日である、3月6日が日本の母の日の始まり」みたいな記述は間違いということになります

 

さて、この1926年の「母の日」の発起人が誰かというと、記事には「東京市や日本女子大学櫻楓会主催で」とあります。時代が下りますが、1935年3月6日の朝日に元「日本女子大学校長」の麻生正蔵の言葉が載っています。

 

今日は地久節であるが数年来文部省では特にこの日を母の日として 皇后陛下の坤徳を仰ぎ奉ると同時に、日本女性が母としての修養同上をはかり、また子としては母を思ひ讃へる何等かの催しをする日として来た、私はこの母の日を初めて提唱したものですが、全国的にこの催しの盛んに行はれることを望んでゐます。*6

 

つまり、皇后の誕生日を「母の日」としようとしたのは、この日本女子大学校長の麻生正蔵ということになります。朝ドラの「あさが来た」にも麻生がモデルの人が出ていましたね*7

 

ということは、まことしやかにネット上でささやかれる「1931年に大日本連合婦人会の結成がきっかけで・・・」という話も不正確ということになります*8。この話は、1931年に大日本聯合婦人会が創設した「母の日」という、月2回の相談会と混同された可能性もあるのでは?と思います*9

 

さて、1927年は昭和に元号が変わったので、地久節も、香淳皇后の誕生日である3月6日に移動します。もちろん催しは行われていて、同年3月3日の読売新聞には「愛国婦人会隣保館」で「地久節を母の日として記念するため」「婦人講演会」を行うとあります*10。こうして、これからは毎年3月6日が「母の日」として祝われることになっていきます

 

3.5月の母の日も祝われていた

では、日本では戦前は5月の母の日はマイナーな存在であったのか。

ところが、これはそうでもないようです。たとえば1927年5月6日の読売新聞に以下の記述があります。

今月の第二日曜は世界的に定められた「母の日」に当り八日の当日は各地でこの日が守られるが、東京青山学院内アレキサンダー氏方に本部を置く日本母の会では母の日運動として左の善行を認めている(以下略)*11

「各地でこの日が守られる」が、世界各地なのか日本各地なのかで話が変わってくるのですが、「母の日運動」が存在するくらいの認知度はあったということでしょう。

1928年5月5日の朝日にも、「世界の各国で母の日といふ日を年々記念しています」と紹介しています*12

 

そして、1931年には「「母の日」行進」があったという記事が出てきます。

 

ぶだうの家子供クラブと『母の日会』主催で『母をたゝへませう』と十日午前十時から大手町日本橋、京橋、尾張町に集めた子供二百人は胸に「母を想ふカーネーシヨン」をつけて楽隊を先頭に日比谷公園の子供遊び場に行進(以下略)*13

 

二百人が行進って、なかなかだと思います。そして、この時点ですでに「カーネーション」の話が出てきます。

 

翌年の1932年5月5日は、紙面を大きく割いて、「母の日」の特集が組まれています*14。同年5月8日には、「『母の日』大会」が開催されたことが掲載されており、カーネーションの花束を「皇太后両陛下」に献上したとあります*15。おや、3月6日の地久節はどうなったんだ。

 

アメリカ式の5月の「母の日」は、どうやら1931年あたりから日本で市民権を得てきた、と言ってもよいでしょうか。

 

4.日本には2つの「母の日」が共存していた

先述したとおり、5月の「母の日」は戦前から祝われ、それに「皇太后両陛下」の参加もあったということですが、では今までの3月6日の「母の日」がなくなったかというと、そうではありません。

 

1933年2月25日の朝日新聞には、3月6日に「大日本聯合婦人会」が「「母の日」の大会」を開くことを告知していますし*16、3月6日当日にはその祝いの言葉が紙面上で述べられています*17

 

どちらも同じような規模で催しが開かれているようで、つまり、この1931年から数年間、日本には「母の日」が二つあり、共存していたということになります。

 

両方同じ名称で困ったのか、1935年ごろからは、5月の母の日を「万国母の日」「国際母の日」という呼び方にしていて、区別するようにしています*18。また、同じ年の4月24日の社説には、「記念日」が多すぎることに苦言を呈し、「おやおや、また母の日か、三月六日にやつたばかりぢやないか」*19と、当時の人々も二つ存在することに困惑している様子がうかがえます。

 

5.戦争がその後の母の日を決定付けた

 

ではこのまま仲良く「母の日」が共存していったかというと、だんだんその意味が変わってきます。

 

1937年4月25日に、ネット上でも書かれている「森永」が「母の日」の広告を出します*20

f:id:ibenzo:20160508020341j:plain

 「お母様方二十万人」を「豊島園へ無料御招待」するという広告です。「森永」がなぜ3月6日ではなく5月の「母の日」を選んだのかはわかりませんが、推察するならば、世間一般的には5月の母の日の方が、親しみやすいというところがあったのではないでしょうか。広告にはカーネーションの写真も貼ってあり、現在の「母の日」の感覚とかなり近いことが見てとれます。

 

そしてこれ以降、「母の日」は5月のものが常識になっていきます。

 

1938年の5月「母の日」には「大日本聯合母の会」「大日本国防婦人会」といった婦人団体が指揮をとり、大会を主催しています*21。「大日本聯合母の会」は「大日本聯合婦人会」と同じなのかは微妙ですが、「大日本国防婦人会」は、陸軍省をバックにした団体でもあり、このあたりから、「母の日」は戦時色を濃くしていきます。

 

たとえば1940年5月11日の朝日新聞では、「母の日」と「花の日」*22が関連しているとして、その起源を以下の様に説明しています。

 

(前略)日露戦争が終つて□尾将軍が赫々たる武勲をたてて東京駅に凱旋した時、私や下田歌子先生、吉岡彌牛先生等が主になつて「花の日」を催して、赤い花を飾つて戦勝勇士の労苦をお慰めしたのに始まります。(中略)私共の学校の生徒に名誉の戦死者の家族の方が三四人居りました。(中略)之等の少女を慰めその母を労るために花の日が生まれたと云えませう。*23

 

「花の日」、ひいてはそれに続く「母の日」を、無理やり戦争にからめて、起源をしたてあげようとしているところが、こうやって情報統制されていくんだなあという感じです。

 

カーネーションも、「勤労奉仕」の一環として女学生に作らせたり*24もしていますし、あの森永の「母の日」イベントも、後援に「大政翼賛会」が名を連ね、「母は国の柱」という煽りまでつき、「母の日」は銃後の戦意高揚のイベントにだんだんすり替わっていきました*25

 

恐らく国としては、3月6日の「母の日」をメインに据えたかったのでしょうが、戦時下においてよりポピュラーになっていた5月の「母の日」に方針を転換し、「母に感謝を伝える日」の意味を、都合のいいように解釈してしまったのでしょう。

 

戦後の「母の日」

よって、「戦後に3月6日から5月に母の日が変わった」という説は大きな間違いです。戦中から既に、「母の日」は5月であるという認識が、国民にとって一般的なものになっていたはずです。

 

しかし、「母の日」は確かに遠ざかっていたようで、1946年5月12日の朝日新聞では、「五年ぶりで迎へた今年の「母の日」」という記述があり*26、推測にはなりますが、1942年からは5月の「母の日」の催しは中止になっていたものと思われます。

 

3月6日の「母の日」がどうなったかは詳しい資料を見つけられなかったのですが、1948年の、日本の祝祭日に何を残し何を変えたいかという世論調査の中間報告*27で、地久節の「母の日」を残したいという意見が一定の数あります。Wikipediaには「地久節」は「皇后誕生日」に1948年に変わったとあるのですが、「国民の祝日に関する法律」制定と関連させているのでしょうが、ちょっと謎が残ります。

 

いずれにせよ、「母の日」は国民の祝祭日ではない、ただの「記念日」なので、国がどうこう制定するような内容のものではありません。戦前から続いていた5月の「母の日」が、そのまま自然に人々の気持ちとして、続いていったのでしょう。

 

今日のまとめ

①アメリカの「母の日」は、Anna Jarvisという女性の積極的な働きかけにより1914年にアメリカで制定されたものである。

②日本の初めての「母の日」は恐らく上記Annaの働きかけによるキリスト教系の団体のものだろう。

③皇后陛下の誕生日である「地久節」を「母の日」と定める話は1926年から存在している。提唱したのは日本女子大学校長の麻生正蔵。1926年は大正時代なので貞明皇后であり、日付も3月6日ではなかった。

④1931年ごろから日本では、3月の「母の日」と5月の「母の日」の両方が存在していた。

⑤戦時下においては、森永の「母の日」のイベントを利用し、5月の「母の日」がメジャーとなり、銃後の戦意高揚のものとして利用されていった。

⑥戦後は「地久節」の廃止に伴い、5月の「母の日」が自然とスタンダードになったと思われる。

 

「母の日」の生みの親であるAnnaは、後年、「母の日」が生花業界やらなんやらの商業主義に毒されていくのに憤慨し、訴訟まで起こしたそうです。本来母への感謝の気持ちを表すイベントが、お金を払ってまで贈物をするというものに変わってしまったことが耐えられなかったようです。

 

翻って日本でも、「母の日」は資本主義の波に飲まれてはいますが、振り返れば100年近く続いている長いイベントと言っていいでしょう。「赤いカーネーションは母親が健在の人、白いカーネーションは母親がいない人」みたいな風習は変化しましたが、アメリカの記念日がそのまま日本にも受け入れられたように、母を思う気持ちというものは、そうそう歴史によって変わるものではないのではないでしょうか。

 

以下は、1928年に紙上に載った、母の日の理念です。

 

1.当日は必ず母の安否を問ふこと

(イ)近いところは親しくたずね

(ロ)遠いところは手紙で問ふ

(ハ)いさゝかのものでも心を表はすため母へ贈物をする事

2.母もしいまさずば当日墓参すること

3.母の喜びたまふ善事を他人にすること*28

 

これは今の私たちも同感できるものと思います。特に3はなかなか秀逸だと思います。みんなお母さんに褒められたくっていいことをするんでしょうか。そういう意味で、我々人類はおしなべてみんなマザコンなのかもしれません。

 

 

 

*1:wikipediaによると、この集会にAnna自身は参加せず電報を送った、とのこと。

「 Although Jarvis did not attend this service...」

Anna Jarvis - Wikipedia, the free encyclopedia

「Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the Struggle for Control of Mother's Day」という本に記述があるそうなんですが、さすがにこれは手に入らなかった。というか、Wikipediaの記述の方が結構詳しいので、そちらも参照しました。

*2:たとえば以下のサイト。

母の日にカーネーションを贈るのはなぜ? 通販のベルメゾンネット

アメリカに住むアンナ・ジャービスという少女の母親が亡くなったのは…”

母の日(ははのひ) - 語源由来辞典

”アメリカのフィラデルフィアに住む少女「アンナ・ジャービス」が…”

*3:多くのサイトでは、「1915年」に教会で行われて・・・みたいな記述が多いですが、今回はちょっとその方面の資料を見つけることができませんでした。ただ、Anna女史の活躍から、キリスト教系の団体を通じて、催しが広まっていたことは可能性としてはありえます。

*4:実は記事には続きで、大統領が「母の日」の「決議案を可決」したとあるのですが、1914年説が正しいならばこの話は既に終わっているはずなので、ちょっとこの記事自体の信憑性が危うくはなってきます。

*5:朝日1926年6月24日東京・朝刊6P

*6:朝日1935年3月6日東京・朝刊7P

*7:あさが来た|湯浅崇演じる絹田のモデルは麻生正蔵!凄まじい貢献とは? | 歴ドラ.com

*8:ただし、1931年5月9日の朝日朝刊5Pには、「内務省の発議によつて本年から皇后陛下の御誕生の日をもつて日本の母の日といふ事に定められた」とあり、正式に「母の日」として制定されたのは1931年、という年は正しいのかもしれません。ちなみに文部省の訓令に基づき、という情報もあり(朝日1934/3/55P)、正直どれが正しいのか不明です。「大日本聯合婦人会」のバックは文部省のようですので、文部省が恐らく正しく、提唱は麻生先生だとしても、制定に尽力したのは会の団体と考えれば、「1931年に大日本連合婦人会の結成がきっかけで・・・」はあながち間違いではありません。

*9:朝日1931/4/30東京夕刊・P2

*10:読売1927年3月3日朝刊3P

*11:読売1927/5/6朝刊3P

*12:1928/5/5東京朝刊

ちなみにこの記事では、母の日の起源を「1908年」の「ウェブスター」で「ヂアルプキス」という婦人の言葉に感銘を受けた「アンナ」という少女が、婦人が亡くなったときにカーネーションを贈ったのがきっかけ、とウソばっかり書いています。

*13:朝日1931/5/11東京長官7P

*14:朝日1932/5/5東京朝刊10P

*15:1932/5/9東京朝刊7P

*16:1933/2/25東京朝刊9P

*17:1933/3/6東京朝刊8P

*18:朝日1935/4/20東京夕刊2P もしくは朝日1935/5/14東京朝刊5P

*19:朝日1935/4/24東京朝刊3P

ちなみにこの記事では、5月の母の日が「母を護れ」の日になるらしいと書いていますが、その後そういう情報は出てこないので、頓挫したものと思われます。ただ、人々が同じ「母の日」が2つあることに対して、どうにかしようとしていたということの証左にはなると思われます

*20:朝日1937/5/9東京朝刊16P

*21:朝日1938/5/1東京朝刊10P

*22:これがキリスト教の「花の日」をさしているのか独自のものなのかが不明。ただ、全く本来の「花の日」と意味が違う。

*23:朝日1940/5/11東京朝刊5P

*24:朝日1940/5/13東京朝刊7P

*25:1941年の2月15日の朝日新聞には、「婦人国体の統合と翼賛の道」と題して、日頃からの「訓練」の重要性を説き、「三月三日の「母の日」や五月五日の児童愛護週間には一大婦人運動をおこして大いに活躍することが期待されます」と書いてあります。日付は誤植なのかなんなのか不明ですが、地久節のことを指すならば、その「母の日」も、戦時下において意味が変わってきたことがうかがえます

*26:朝日1946/5/12東京朝刊2P ちなみにこの記事には、『花子とアン』の村岡花子の言葉も載っており、ドイツの母親が子どもに「復讐」を囁いたという話の後で、「この日に母親が云ふべき言葉が何であるか」と問いかけています。

*27:読売1948/1/16朝刊1P

*28:朝日1928/5/5東京朝刊