ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

盆踊りとハロウィンの類似性を探る、誰に踊らされているのか

すこーし前のツイートですが、ハロウィンの若者の熱狂ぶりについて、話題になったものがあります。

 

 

若者がいつの時代も「今までなかった」ものを愉しむということは変わらない、という話ですが、ふーむ、盆に踊る習慣なんてなかったかな?と疑問に思い、ちょこっと私もツイートしたのですが、色々億劫だったので調べるのを先延ばしにしていました。ツイート主の方も、後のツイートで「東京で」盆に踊る習慣なんてないという意味だと補足されていますが、果たしてそうなのかな、というところを調べてみました。

 

 

***

 

「濹(ぼく)東綺譚」の一場面

永井荷風が盆踊りについて自作品で語っているのは『濹東綺譚』で、以下の場面です。ちょっと長いんですが。

是より先、まだ残暑のさり切らぬころ、日比谷の公園に東京音頭と称する公開の舞踏会が挙行せられたことをも、わたくしはやはり見て来た人から聞いたことがあった。
 東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行われたように言われていたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃の浴衣を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。それはとにかく、東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔きょうほんするばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。
 わたくしは震災前、毎夜帝国ホテルに舞踏の行われた時、愛国の志士が日本刀を振ふるって場内に乱入した為、其後舞踏の催しは中止となった事を聞いていたので、日比谷公園に公開せられた東京音頭の会場にも何か騒ぎが起りはせぬかと、内心それを期待していたが、何事も無く音頭の踊は一週間の公開を終った。
「どうも、意外な事だね。」とわたくしは帚葉翁を顧て言った。翁は薄鬚うすひげを生はやした口元に笑を含ませ、
「音頭とダンスとはちがうからでしょう。」
「しかし男と女とが大勢一緒になって踊るのだから、同じ事じゃないですか。」
「それは同じだが、音頭の方は男も女も洋服を着ていない。浴衣をきているからいいのでしょう。肉体を露出しないからいいのでしょう。」*1

 

ここでわかることは、

①東京音頭なる舞踊が東京市を広くなったことを祝して作られた

②東京市内で若い男女が舞踊をなすことは許可されたことがない

③農村の盆踊りもたびたび禁止された

④江戸時代に町民が盆踊りをすることはなかった

ということです。確かに、荷風の言葉を信じるならば、この時代まで「東京」で盆踊りが許されることはなかったように見えます。

 

東京音頭とは何か

『濹(ぼく)東綺譚』が私家版で発行されたのは1937年と言われています。また、言及されている「東京音頭」(当時は「丸の内音頭」と呼ばれていましたが)の光景の話は1932年のことで、5年開きがあります。そのためか、この荷風の描写は、実は事実と異なる部分がいくつもあります。

 

以下の話は、

 

ニッポン大音頭時代:「東京音頭」から始まる流行音楽のかたち

ニッポン大音頭時代:「東京音頭」から始まる流行音楽のかたち

 

をベースにしながら、成立の経緯を要約します。

 

まず「東京音頭≒丸の内音頭」ですが、これは、1933年(昭和7年)に、丸の内界隈の飲食店を経営する旦那衆が企画して作ったものだといわれています。「丸の内音頭」の作詞者の西條八十は、きっかけをこんな風に話しています。

 

日比谷公園松本楼の主人その他の丸の内の古顔連と顔を合わせたとき、こんな話が出た。

「そろそろまた夏が来ますな。盆になると田舎ではよく盆踊りというのをやるが、この東京にはどういうものかそれがありませんね」

「ひとつ今年からやってみますかな」

「とりあえず『丸の内音頭』として始めたらどうでしょう*2

 

また、他の証言では、「有楽町の町内会が田舎の盆踊りを再現し、不景気を吹き飛ばそうと考えてビクターに相談した」*3とあるようですが、いずれにせよ、昭和金融恐慌の只中にあった丸の内を盛り上げようという意図で行われたものであり、「東京市」のお祝いというのは、少なくとも当初の理由ではなかったでしょう。大石は、この「丸の内音頭」を「極めて宗教性が薄く、あくまでも地域振興を目的とするもの」として作られたと記しています*4。いわゆるご当地ソングというやつですね。

 

当時の朝日新聞に、この催しの告知が載っています。

 

日比谷で盆踊り 十五日夜から

不景気も暑さも踊つて忘れろと麹町区有楽町二ノ一九丸之内音頭会長藤村源三郎氏が主催者となり、日比谷公園で盆踊りを催さうとかねて警視庁保安部に届出があつたが、六日保安部では許可に決定 来る十五日から二十日まで毎夜午後七時から十時まで帝都の中央日比谷公園で地方色豊かな盆踊り風景が見られるのである。*5

 

荷風はこの音頭を「日比谷の角の百貨店(白木屋ですね)の広告」と書いていますが、これは誤りで、記事にあるとおり、警視庁保安部に届けなければならないほど舞踊(集会)に対しては厳しかった時代ですので、「浴衣」だけの人なら許可しようということで、白木屋がこの浴衣を売り出したそうなんです*6。1925年に治安維持法が成立している時代ですので、苦肉の策といったところなんでしょうか。

 

翌年の昭和8年に、『東京音頭』という名前でレコードが発売され、爆発的なヒットとなります。日本の現代の盆踊りは、この『東京音頭』が基点となっているといっていいでしょう。

 

東京で盆踊りが踊られたことはないのか

盆踊りの起源と成立の過程は諸説あるようですが、おおよそ一遍上人の念仏踊りが祖となり、仏教的行事やら民俗的行事と融合して成立していったという見方が多いようです。折口信夫は「念仏踊り」「小町踊り」「伊勢踊り」を盆踊りの三要素としているみたいですが*7、私は民俗学に詳しくないので(詳しくないものが多い)、現在の盆踊り史観はどうなってるんでしょうね。

 

下川耿史は『盆踊り 乱交の民俗学』(2011)*8の中で、『武江年表』*9をソースにして、慶安時代(1648-51)に「毎年七月になると、市中で男女の踊りが催され、夜までにぎわう」と書かれていると述べています。1677年には大ブームがおき、幕府が禁止令を出すほどだったということで、江戸時代初期には、かなり「盆踊り」*10が踊られていたと言っていいでしょう。

 

しかしながら、櫓を囲んでみんなで仲良く踊る、というような近代的盆踊りではなく、男女が入り乱れて、肉体関係を築くような、性にオープンなお祭りだったので、明治以降は政府によって禁止されていきます*11。下川によれば、『群馬県警察史』(1978)には、1870年(明治3年)に、「盆踊りと唱へ、夜遊びいたし候向きあひ聞こゆ」(下川 2011 P212))として禁止令を出したり、島根県も1873年(明治6年)に「男女群集し、市中を踊り歩き酒食に耽り、放逸に流れる弊習は、文明の今日、あるまじきこと」として禁止しています。

 

とはいっても、禁止令をいくら出しても地方では盆踊りは伝えられ、だんだんこの禁止令が形骸化していく場所もあったようです。

 

ということで、東京の盆踊りについて調べてみると、いくつか「盆踊り」として催されています。

 

たとえば1919年7月16日の朝日に、「盆踊り―昨夜賑やかに―亀戸の東洋モスリンで」というタイトルで、「秋田新潟県人」の「慰安」のために、東洋モスリン会社が、盆踊りの会を催したという記事が載っています。記事の最後には、「今夜はお隣の東京モスリン、東京キャリコ会社」でも行う旨が書いてあるので、ひとつの「地方芸能」という形で、東京でも開催されることはあったようです。

 

1928年7月16日には「賑やかな盆踊り(昨夜大塚公園で)」というタイトルと写真が掲載されています。大塚公園は恐らく文京区の大塚公園だと思うのですが*12、女性が頬かむりをして、円を描いて踊る様子が写っています。定期的なイベントだったのかはわかりません。

 

1931年7月17日には、「濱町公園*13で盆踊り-一万人の人手」という記事が載っています。1万人とは、なかなか盛大なイベントのようですね。記事にはこう書いてあります。

 

雨につぶれかけたお盆の十六日に薄日がさして夜の六時半から濱町公園で開かれた名物濱町音頭の踊りの賑はしさ、浴衣がけで隅田の川風に吹かれながら見物にくるわくるわ*14

 

現在でも保存会の方がこの音頭を受け継いでいるようですが、その方たちの話によれば、「昭和4年7月」に濱町公園が竣工された記念に作られた音頭だそうです*15

 

 

要するに、東京でもイベント的に盆踊りは続けられていた、というのが実際のところでしょう。なので、ツイート主の「昭和7年にはじめて都内で盆踊りが開催された」というのは、正確ではないということになります。しかしこれは荷風も事実認識に誤りがあったということでもあります。

 

これは推測になりますが、この頃、東京では関東大震災後の都市計画の一環として、随所に公園が建設されるようになります。で、公園のような広い場所でなにかイベントしたいなーと考えた時、彼らが思いついたのが盆踊りだったのではないでしょうか。この後、『東京音頭』が爆発的な流行を見せるわけですが、東京で少しずつ「盆踊り」に対する下地ができつつあった、と考えることもできます。

 

若者と祭り

この「東京音頭」は、レコード会社とタッグを組んだものでもあり、今までの伝統的な盆踊りからは外れ、商業的な色彩を帯びたものとなりました。荷風も批判的ですが、当時も賛否両論いろいろあったようです。

 

たとえば1933年9月21日の朝日に学生からの投書が載っています。

 

近頃盛んな「東京音頭踊」時代は、何を語るのか。近県のC市では県庁前の広場で、内務部長までが尻をからげて、平民共と一所に、ステテコを踊り、近郊のE町では小学校長が女生徒の一団を率いてヨイヨイとはねてゐる。まことに天下泰平な有難い風景である。*16

 

1933年と言えば、日本が国際連盟を脱退し、中国に戦線を開き始めたころのことです。「非常時」として、浮薄な踊りを戒める意見も多かったようです*17

 

この「東京音頭」を、「ええじゃないか踊り」と結びつけ、時代の閉塞感からの脱出と論じる話も多いのですが*18、まさに「祭り」というのは、そういうものですよね。よくいう「ハレとケ」において、「祭り」は「ハレ」非日常であり、日常性の破壊行為でもあります。「盆踊り」はそもそも、祭りとして、極端なところでは乱交まで行う儀式です。そして、「盆踊り」は元々は「若者組」*19が取り仕切っており*20、若者たちのセレモニーでもありました。「東京音頭」も、参加する多くは若者であったようです。

 

翻って現代のハロウィンもまさしく若者たちのイベントです。元の起源はともかく、非日常の装いをすることで、彼らは「ハレ」の体験をするわけです。彼らが何か日常に閉塞感を抱いているのかまではわかりませんが、歴史的に見れば、若者が「ハレ」の体験を好むというのは、確かに間違ってないことなのかもしれません。

 

 

今日のまとめ

①東京の盆踊り「東京音頭」について永井荷風が書いているのは『濹(ぼく)東綺譚』である。

②「東京音頭」は、金融恐慌の中、丸の内の町内会の旦那衆が、地元を盛り上げるために、ご当地ソングとして作られたものである。

③また、東京で盆踊りは開催されたことがないと書かれているが、実際は数年前からイベント的に各所で行われるようになってきており、「東京音頭」がヒットする下地はできていたといえる。

④「東京音頭」も「ハロウィン」も、祭りの「ハレ」の儀式として共通する部分があり、それを担ってきたのは確かに若者たちであったと考えられる。

 

私が今回のツイートを取り上げたのは、「いい切り口だなあ」と思ったからです。多少の事実誤認はあるかもしれませんが、「ハロウィン」と「盆踊り」を結びつけて考えた人って、なかなかいないんじゃないでしょうか。

 

「東京音頭」のバカ騒ぎは、賛否と書きましたが、苦言の方が多かったようで、沿道にまで踊りの客が出て渋滞を引き起こしたり、朝礼前の校庭で突然子どもが踊りだしたり、「東京音頭撲滅同盟」なるものが組織されたとかしないとか*21、何て話もあったそうです。こういう批判が渦巻くって言うのも、今のハロウィンと似ているところがあるなーと思います。

 

結局、東京音頭に続く「音頭」ブームは、戦時下の戦意高揚・愛国心のために、政府や軍に利用されていきます*22。また、「売れる」と踏んだレコード会社の宣伝の思惑もあったでしょう。昨今の「ハロウィン」ブームは、果たして、誰かに踊らされていることなんでしょうか。

 

*1:永井荷風 ※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25]東綺譚

*2:あの夢この歌―唄の自叙伝より (1948年)(イブニングスター社)P235

*3:レコード・マンの世紀―黒船来航から、ひばり絶唱まで…

*4:大石 2015 P45

*5:朝日東京1932/8/7 夕刊P2

*6:大石 2015 P48

*7:折口信夫 盆踊りの話

*8:

盆踊り 乱交の民俗学

盆踊り 乱交の民俗学

 

なかなか面白い本でした。ちょっと強引過ぎるところもあると思いましたが

*9:斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。「武江」とは「武蔵国江戸」の意。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590年)から明治6年(1873年)までの市井の出来事が編年体で纏められている

武江年表 - Wikipedia

こちらから(国立国会図書館デジタルコレクション - 武江年表)、実際の箇所を探してもよかったのですが、とても面倒くさくなりました

*10:「盆踊り」という言葉は、下川によれば1600年代半ばごろに定着したのではないかということです

*11:下川 2011 P211

*12:文京区 大塚公園 1928年開園とありますので、ちょうど開園にあわせた形のイベントだったのかもしれません

*13:浜町公園 - Wikipedia

*14:朝日1931/7/17 P7

*15:浜町音頭保存会 - bondysalt 盆踊り

*16:朝日1933/9/21 3P

*17:ちなみに、この2日後の投書は「非常時にさへこれ位の余裕を見せる国民の度胸」として擁護しています。賛否両論が多かったようで、注として「東京音頭賛否双方の投書沢山来ているが、これを以て打ち切ります」とあります

*18:例えば

恥部の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

恥部の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

*19:若者組 - Wikipedia

*20:下川 2011 P204

*21:大石 2015 P63

*22:大石 2015 P64