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ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

とりあえずの『騎士団長殺し』の感想

村上春樹の新作が賑わせていますね。

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

7年ぶりの長編ということで、私もさっそく買って読みました。この話が「物語」として万人受けする面白さがあるかどうかは少々疑問ですが、しかし、ちょっと今までの物語とは別物である、と(えらそうに)感じました。名前をお借りしている義理もあるので(むこうにはないですが)、ちょっと「とりあえず」の感想を書いてみたいと思います。前半はなるべくネタバレを含まないようにしますが、そもそも村上の新作は最近、あらすじすら伝えないので、まっさらな気持ちで読みたい人はお読みにならないほうがよいかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

『騎士団長殺し』のあらすじと特徴

 

なかなか物騒なタイトルですが、お話は現代日本の物語です。

 

主人公の「私」は肖像画を専門に扱う画家。妻との夫婦生活がうまくいかず、友人の伝で、画壇の巨匠・雨田具彦の元アトリエでひとりで暮らすことになる。その家で、雨田の描いた「騎士団長殺し」というタイトルのついた日本画を発見する。その後、免色(メンシキ)*1という人物が「私」に肖像画の依頼を行う。それから、「私」の周りで不思議なことが起こり始め、絵画の中の「騎士団長」が「私」の前に姿をあらわす…

 

「騎士団長殺し」の絵は日本の飛鳥時代と思しき設定に翻案されていますが、実際は『ドン・ジョバンニ』というモーツァルトのオペラの1シーンが元になっている、とされています。

 

この話は、現代の日本の話ではありますが、「私」の回想という形をとっています*2。「回想」という形で思い出されるのは、処女作品の『風の歌を聴け』です。『風の歌を聴け』では、「僕」が「鼠」との思い出を振り返るという体裁をとり、「1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」と細かく日付が指定されていますが*3、『騎士団長殺し』でも、「その年の五月から翌年の初めにかけて」の「九ヶ月」と初めの段階で明示されており、個人的には類似を感じました。

 

また、男性主人公の一人称が「私」(会話では「ぼく」)で展開しているのも、長編ではなかなか例がないかな、と思います*4。長編で「私」を一人称にもってきているのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ぐらいでしょうか(忘れてるかもしれないので、なんかあったら教えてください)。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や『1Q84』の最近の作品は三人称を採用しているので、私はこの呼称の変化は、やはり今までの作品との区切りをつける形もあるのではないか、などと推察してしまいます。ちなみに、村上自身が「三人称」を意識したのは『神の子どもたちはみな踊る』の頃だと自身が言っています。

 

視点を大きく散らしていくことによって、これまでにない新しい書き方ができたし、新しい作風のようなものがそこに生まれたと思うからだ。とくに『タイランド』や『かえるくん、東京を救う』のようなタイプの物語は、三人称でなくては書けなかったものだ。

『全作品第2期ー3 短編集Ⅱ』解題

 

これを捨てたという事は、なかなか意義深いものがある、と感じます。

 

他の私が感じた特徴として、「日本」という枠組みを意識して書かれているということです。

 

『騎士団長殺し』では、主人公の発見する「騎士団長殺し」はそもそも日本画であり、主人公は「西洋画」との対比をこう語っています。

 

「十九世紀後半に明治維新があり、そのときに他の様々な西洋文化と共に、西洋絵画が日本にどっと入ってきたわけですが、それまで『日本画』というジャンルは事実上存在しませんでした。呼称さえ存在しませんでした。(中略)外来の洋画が登場して、それに対抗するべきものとして、それと区別するべきものとして、そこに初めて『日本画』という概念が生まれたわけです。

『騎士団長殺し 第1部』P160

 

(前略)日本画というのは本来、定義があってないようなものなのです。それはあくまで漠然とした合意に基づく概念でしかない、と言っていいかもしれません。最初にきちんとした線引きがあったわけではなく、いわば外圧と内圧の接面として結果的に生まれたものです

同前 P161

 

この話が歴史的事実かどうかはともかく、安易に主人公と作者を重ね合わせるのは早計ですが、村上の日本観と合わせて考えるとなかなか興味深いです。

 

また、上田秋成の『春雨物語』が物語の重要な鍵として登場します。秋成を古典文学に含めるかは微妙ですが、村上が自作の中で日本の古典文学を取り上げることは少なく、『1Q84』でふかえりが『平家物語』の暗誦をしたぐらいじゃないでしょうか。

 

村上春樹と言うと、海外、特にグレートギャッッビーに代表されるような、アメリカ文学への傾倒のイメージがあるかもしれませんが、日本の文学に対して完全に拒絶しているわけではありません。「日本の小説の文体や視点や主題の据え方にうまく馴染めないものを感じた」としながらも、日本から離れて暮らしていた経験から「自分が日本人の作家で、日本語で小説を書いているという客観的事実に日々まざまざと直面しなくてはならな」くなり、「熱心に日本の文学作品を買い込んで」くるようになったそうです*5。このような体験が、作品にどのように影響されたかはなんとも言えませんが。

 

次項より、上記のことを踏まえ、私なりの今回の『騎士団長殺し』の解釈をしていきたいと思います。ここからは大きく内容に触れますので、お読みになる方はお気をつけ下さい。

 

 

 

 

 

 

ねじまき鳥との関係性

村上春樹は、『ねじまき鳥クロニクル』あたりで、自分の考え方の変化を「「デタッチメント(関わりのなさ)」から「コミットメント(関わり)」」と説明しています。

 

それと、コミットメント(関わり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが。

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)P18

 

村上は、その「コミットメント」はただ、「手をつなごう」という関わりではなく、「「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる」という「コミットメント」のありかたに「非常に惹かれた」と述べています*6

 

「井戸」が一番象徴的に扱われるのは『ねじまき鳥クロニクル』です。主人公の「僕」は、自宅近くにある「井戸」から、別の世界に抜けて、物語の「悪」である「ワタヤノボル」を殺しにいきます。

 

今回の『騎士団長殺し』に「井戸」は登場しませんが、「井戸」らしきものは出てきます。「イデア」として表象される「騎士団長」が閉じ込められていたとされる、「穴」もしくは「石室」です。しかし、村上は明らかに今までの「井戸」とは区別するようにしています。

 

初めは、

 

「あるいはもともとは井戸だったのかもしれません」

『騎士団長殺し 第1部』P249

 

埋められた井戸の底で、重い蓋をされた真っ暗な空間の中でとても孤独に。

同前 P253

 

と、「井戸」であったことを暗示されていますが、徐々に「井戸」であることは否定されていき、それは「穴」という表現に変わっていきます・

 

ただ井戸を途中まで埋めたというものではなないように思います。井戸ならおそらくもっと簡単な石積みで済ませるはずです。

同前 P287

 

穴の中で私はずっとそのことを考えていました。

同前 P403

 

あの穴の底から、いったいどこに通じることができるのだろう?

『騎士団長殺し 第2部』P251

 

『騎士団長殺し』と『ねじまき鳥~』の類似性はいくつも見つけ出せます。まず、どちらも妻と離れていること。『騎士団長殺し』の「私」は別居し、『ねじまき鳥~』の「僕」の妻は失踪します。主人公はどちらも失職しており、「定職」にはついていません*7。ついでに料理がうまい。「僕」は『カラマーゾフの兄弟』の名前が全員いえますが*8、「私」は『悪霊』の登場人物の名前を七人まで思い出せます*9。そもそも、章立ても(作中の言葉が章名になっている*10)本自体のつくりも(第1部・第2部・もしかして第3部も?*11)そっくりです。

 

しかし、明確な違いもあります。『ねじまき鳥~』は、井戸から異界に入り込み、「悪」である「ワタヤノボル」を野球バットで殴り殺し、そしてまた井戸に戻ってきます。それに対し、『騎士団長殺し』は、雨田具彦が昏睡する部屋で、「私」が騎士団長を絵と同じように刺し殺し、「顔なが」*12の導きでもって、「メタファー通路」という異界へ入り込み、そして「穴」へ戻ります。ちょうど、『ねじまき鳥~』でたどった道と、『騎士団長殺し』は反対の道を歩んでいるのです。

 

f:id:ibenzo:20170225234030p:plain

 

『ねじまき鳥』ではその「暴力」性は、異界からの脱出の際に使われますが*13、『騎士団長殺し』では、異界への扉を開くために「暴力」が使われるのです。これは明確で重要な違いだと考えられます。

 

村上は『ねじまき鳥~』の後、「井戸」の存在を捨てています。『スプートニクの恋人』では、「この島では誰も井戸を掘りません。そんな必要がないからです」と言わしめています。加藤典洋は、この「井戸の消滅」を、「隠喩的な世界から換喩的な世界に変わった」と考察しています*14

 

隠喩的な世界とは、まだ現実の現実感が「ほんもの」感をともなって感じられていた世界のことであり、換喩的な世界は、現実世界の現実感がヴァーチャルなそれとの間で、いずれがほんものかわからず、その「ほんもの」感を失った世界のことだと言ってみることもできます*15

 

まさに『1Q84』の世界は、「換喩的な世界」といえます。しかし、「井戸」ではない何かへと逆戻りした『騎士団長殺し』はどんな世界なのか。

 

免色はワタヤノボルなのか

『ねじまき鳥~』と同様、『騎士団長殺し』でも、その「暴力」性が物語のキーになってきます。それは、雨田具彦のウィーンでの暗殺未遂の話であり、彼の弟の南京での無意味な殺害であり、そして「私」が交わった女にした首絞めでもあります。

 

今まで、そういった「暴力」=「悪」の存在は、特定の登場人物に引き受けられてきました。過去作品から考えれば、それは『納屋を焼く』のハンサムな男であり、『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君であり、『アフターダーク』の娼婦を殴ったサラリーマンであり、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーであり、そして『ねじまき鳥~』のワタヤノボルです*16

 

私は当初『騎士団長殺し』を読み始めたとき、免色が、この「ワタヤノボル的存在」になるものだと思っていました。それほどまでに、彼は、今までの「悪」の存在と似ていたのです(ハンサム・アッパークラス・礼儀正しい・高い教養など)。

 

しかし彼は、常に「思惑がある」そぶりを見せながらも、そこに「暴力」は介在しません。その予感があるだけです。一番、その予感が高くなるのが、物語の最終盤、まりえが彼の家のクローゼットの中に隠れ、彼女の気配をかぎとった免色が近づいてくるシーンです*17

 

ここには何か恐ろしいものがある。そしてそれは私がうっかり近づいてはならないものだ。ここには何かのイシキが働いている。(中略)そしてその何かは今、私にその手をじかに伸ばそうとしている。

『騎士団長殺し 第2部』P480

 

かなり『騎士団長殺し』は単調な話で、『1Q84』と比べると、意図的に筆致の高ぶりは抑えられ、ともすれば抑揚の無い退屈な箇所も多いです。しかし、このシーンは物語で一番緊迫したシーンであり、私は『ねじまき鳥~』のホテルのシーンを思い出しました。

 

開けられそうになった瞬間、彼女はこう思います。

 

扉は開かれ、男は彼女の姿を目にするだろう。そして彼女はその男の姿を目にするだろう。それから何が起こるのか、彼女にはわからない。見当もつかない。この男は免色ではないのかもしれない、そういう思いが一瞬彼女の頭に浮かんだ。じゃあそれは誰なのだ?

同前 P481

 

しかし、扉は開けられることはありません。すんでのところで、「何かが」彼がそうすることを押しとどめます。騎士団長は彼を、「免色くんであると同時に、免色くんではないものだ」と表現します。彼には「とくべつなスペースのようなもの」があり、「結果的に」「危険なものを呼び込む可能性を持っている」と。

 

「危険なもの」とは、「悪=暴力」であると言っていいでしょう。そして、その「暴力」は、『騎士団長殺し』の世界では、「白いスバル・フォレスターの男」として表現されます。しかし、「私」は彼のポートレートを描きかけるだけで、彼の存在を明確な存在にはさせません。しかしそれは、明確な存在にならなかった分、主人公の「私」の心にすみつきます。

 

私は目をつぶり、宮城県のラブホテルで女の首を絞めたときのことを思い出した。もちろんそれはただの真似事だった。(中略)私がそのときラブホテルのベッドの上で、自分のうちに一瞬見いだしたのは、これまで覚えたこともないような深い怒りの感情だった。それは血の通った泥のように、私の胸の中で黒々と渦巻き、そして本物の死に紛れもなく近接していた。

同前 P322

 

おそらくあの男が私を導いて、女の首を絞めさせたのだ。そうやって私に、私自身の心の暗い深淵を覗き見させたのだ。そして私の行く先々に姿を見せ、私にその暗闇の存在を思い起こさせた。おそらくはそれが真実なのだ。

同前 P376

 

今回の物語は「悪」の予感があるだけで、それが行使されることはありません*18。完全な意味での「ワタヤノボル」は存在しません。ただ、誰もが「ワタヤノボル」になる可能性を秘め、その可能性を暗示しています。その意味で「私」と「免色」は同時的な存在であり、対の関係になっているともいえます。ただ、『ねじまき鳥~』の「僕」と「ワタヤノボル」のような裏表の関係というよりも、もっと重なり合った存在のようにも思えます。

 

要は、私は、この『騎士団長殺し』は、より抽象度の増した「換喩的な世界」であり、村上が好んで使っている二項対立は消えうせ、全てのものがより重なり合った(コミットメントした)世界であると考えています。物事は変質し(井戸が穴になるように)、全てがひとつに帰っていく。それを「私」は「信じる力」と表現しました。何も弁別できない世界においては、「信じる」ことで生きていくしかないと。村上は、この物語の最後に、東日本大震災のエピソードを加えています。 

 

私が妻のもとに戻り、再び生活を共にするようになってから数年後、三月十一日に東日本一帯に大きな地震が起こった。

同前 P529

 

つまり、この話は、2011年の震災後の地点から回想をしていた、ということがここでようやく判明します。震災という、人間にとって最大ともいえる「暴力」を経験してからの物語だったというわけです。それはもはや「悪」とは呼べないかもしれません。「悪」もまた、今までの世界から変質しつつあるのです。

 

 

子どもという恩寵

加藤は、村上の作品を3つの段階に分けました。

 

第1期:個と世界という関係に定式化できる関係。『風の歌を聴け』~『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 

第2期:三者の関係というあり方を示す、横の対関係の基軸。『ノルウェイの森』~『ねじまき鳥クロニクル』

 

第3期:親と子の関係が基軸の世界。『スプートニクの恋人』~『1Q84』

*19

 

『海辺のカフカ』はもろに「父殺し」というテーマがあり*20、『1Q84』で天吾が父を見舞い本を読む場面は、父との別れでもあります。私は、この区分に従うならば、やはり『騎士団長殺し』は第三期に入るだろうと思います。ですがそれはより、「子ども」にコミットした形としてです。

 

ここで対比的に出したいのが、『羊をめぐる冒険』です。主人公の「僕」は既に妻と離縁しており、「デタッチメント」の存在として描かれています。

 

「子供欲しかった?」

「いや」と僕は言った。「子供なんて欲しくないよ」

 

加藤は、この主人公を「態度としてのデタッチメント」の存在と規定し、「「関わりのなさ」を性格に埋め込まれた」初めての主人公だと言います*21。それほどまでに、この「僕」はリアリストです。

 

「本当のことを言えば、あなたとは別れたくないわ」としばらくあとで彼女は言った。

「じゃあ別れなきゃいいさ」と僕は言った。

「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」

 

この他人との関わりのなさが、『騎士団長殺し』にはありません。終盤、妻のユズと「私」が話す場面が、上記と対比的にそれを象徴しています。

 

「できれば、もう一度あなたとやり直してみたいと思う」とユズは言った。「実はそのことはずっと考えていた」

「ぼくもそれを考えていた」と私は言った。

「それでうまくいくかどうか、私にはよくわからないけど」

「ぼくにもよくわからない。でも試してみる価値はある」

『騎士団長殺し 第2部』P527

 

もうそこには、「じゃあ別れなきゃいいさ」と、他人事のように他者を拒絶する主人公は存在しません。同じように道は見えないにも関わらず、「どこにも行けない」と諦める関係はそこにはありません。「ぼくもそれを考えていた」と同調し、「試してみる価値はある」と挑戦する、力強い主人公がそこにはいます。

 

そして、『騎士団長殺し』では、長編としては恐らく初めて、主人公には「自分」の子どもが生まれます*22

 

子どもの名前は「室(むろ)」と名付けられ、これは明らかに、あの「穴」が意識されたものです*23。「室」は空っぽなので、そこには様々なものが入り込む余地があります。なので、「私」は、「暴力」を彼女には見せようとしません。

 

「そうだよ。遠くでほんとうに起こっていることだ。でもほんとうに起こっていることをみんな、きみが見なくてはならないというわけじゃないんだ」

同前 P532

 

これは、今までの主人公が「暴力」と対峙し、それを克服して世界を変えてきた経緯と比べると、いささか消極的なようにも見えます。ですが、その小さな世界を守ることを、「私」は心に決めたのです。『ねじまき鳥~』や『海辺のカフカ』におけるような、大きな枠組みでの世界を変える物語はそこにはありません。井戸はメタファーではなく、現実の存在=恩寵として、主人公の手に入ったのです。

 

 

 

***

 

とりあえずの感想はここまでです。

 

他にも、プラトンのイデア論*24や、日本的な枠組みという話をしましたが、この物語が伊勢物語のような貴種流離譚の体裁をとっているのではないかという推論*25など、なかなか語りたいことはたくさんありますが、キリがありません。

 

しかし、やはり気になるのは、この話に続きがあるのか、というところです。今までのパターンから考えるならば、1年後ぐらいに第3部が発表される可能性は大いにあります。ただ、今回の話はかなり「環が閉じている」と感じるので*26、何か付け加えることがあるのか?という気がします。強いてあげるなら、『騎士団長殺し』には「プロローグ」がありますが、「エピローグ」がないこと、そこで描かれた<顔のない男>の肖像画が完成していないこと、男がペンギンのお守りについて「おまえはおそらくそれを必要としているだろう」と語ることなどが、多少続きへの余韻を含ませてはいます。が、個人的には可能性が低いんじゃないか、と思います。

 

村上春樹自体は、こういう「解釈」は嫌いだと色々なところで言っているので、私はあえて「感想」と書きたいのですが、いずれにせよ、そのような色々な解釈に耐えうる物語の構造を持っているということでしょう。ただ、今回の『騎士団長殺し』恐らくは意図的と思うのですが、かなり文体が落ち着いて、ストーリーとしての起伏も抑えられています。それは要するに、前述したように、世界を変える大きな物語ではなく、あくまで一個人の回想としての小さな枠組みでの物語だからでしょう。これを退屈な文章ととるかどうかで、かなり好みはわかれそうだと思います。また腰を落ち着けて、ゆっくり読み返してみます。

*1:「色を免れる」という表現をしているあたり、『色彩をもたない~』との関連性も考えたいところですが、今回は省きます

*2:

そう、私は今から何年か前に起こった一連の出来事の記憶を辿りながら、この文章を書き記している

『騎士団長殺し第1部』(新潮社)P15

*3:『風の歌を聴け』(講談社文庫)P13

ちなみに、加藤典洋は、『村上春樹イエローページ』(幻冬舎文庫)で、文章内の日付どおりに考えると18日で収まりきらないことから、この物語の異界的側面を考察しています

*4:短編ではいくつかあります。例えば『東京奇譚集』「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

*5:『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)P32-33

*6:同前 P84

*7:「私」は絵画教室の講師をしていますが、「定職」とは呼びがたいので

*8:『ねじまき鳥クロニクル 第1部』(新潮文庫)P69

*9:『騎士団長殺し 第2部』P204

*10:これは『1Q84』も一緒です

*11:これも『1Q84』とも同じですが

*12:騎士団長や顔ながは明らかにTVピープルを意識しています。

ちょうど騎士団長が、普通の大きさの人間をそのまま「立体縮小コピー」したように見えるのと同じように。

『騎士団長殺し 第2部』P327

TVピープルの場合はまるで縮小コピーをとって作ったみたいに、何もかもが実に機械的に規則的に小さいのだ。

『TVピープル』(文春文庫)P12

また、『1Q84』のリトルピープルとも酷似します。彼らは、異界への案内人の役割を村上作品では果たしているのでしょう。

*13:あるいは『海辺のカフカ』で星野青年が「白いもの」を殺すように。これも異界を閉じる時に使われます

*14:『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』(講談社)P56

*15:加藤 2011 P58

*16:『1Q84』の「さきがけ」のリーダーは、その点では微妙です。彼はより「騎士団長」に近い存在のように思えますが、さすがに論考しているスペースがありません

*17:亡き恋人の服をとっておくというシチュエーションは、『トニー滝谷』とよく似ています

*18:騎士団長殺しに関しては、それが「悪」の行使なのかが微妙です

*19:加藤 2011 P58-P59を要約

*20:『騎士団長殺し』も、「父殺し」のテーマがあります。

諸君が殺すのはあたしではない。諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。邪悪なる父を殺し、その血を大地に吸わせるのだ

第2部 P322

騎士団長のいう「父」は血縁的な「父」よりもより抽象度が増しています。また、この「父殺し」が、雨田具彦という偉大なる「父親」の病床で行われることも注目すべきことでしょう

*21:加藤 2011 P197

*22:擬似的な子供を持つという事では、短編の『蜂蜜パイ』がそれに近いです。地震のテーマともよく似ていて、村上は意識したのではないでしょうか

*23:物語の途中で、この「穴」を「私」が女性器に見立ててデッサンするシーンがあることからも、ここを何か新しいものが誕生する場所と見ているのでしょう

*24:騎士団長が「諸君」と「私」や「まりえ」にまるで彼らが複数存在するかのように話しかけることに関係しているのではないか、と考えました。プラトンのイデア論は「影」が重要ですから

*25:「私」が車で東北~北海道を漂流することや、免色が拘置所に長く拘留されていたことなど

*26:『ねじまき鳥~』のように妻が失踪したままではないし、『1Q84』のように天吾と青豆が離れ離れのままでもなく、まりえは帰ってきて、妻とも寄りを戻しました