警察の敬礼に関する、こんな話が話題です。
警察官が敬礼をすると、結構返してくれるのは、「警察礼式第八条」に「敬礼を受けたときは、何人に対しても、必ず答礼を行わなければならない」という規定があるからなんだそうです。
ほんまかいなと思って調べてみると、確かに「警察礼式」というものは存在していて、なおかつ、同じことが書いてありますね。
(答礼)
第八条 敬礼を受けたときは、何人に対しても、必ず答礼を行わなければならない。
なるほどー、と思って終わってもいいのですが、なぜこんな条項があるのか、不思議ではありませんか?ということで、過去を遡って調べてみると、なかなか興味深いことがいくつかわかったので、今回はそのまとめをしてみたいと思います*1。
警察礼式は明治からある
「警察礼式」なんてちょっと古めかしい言い方ですが、調べてみると、この言葉は明治の頃からあることがわかります。
最初の制定は、内務省の省令として明治19年(1886年)に出された「警察官吏禮式」なのだろうと思います。しかし、この内容はネット上では確認ができず、それが廃止されてできたのが、明治24年(1891年)の「警察禮式」です。
明治24年の官報2434号に、「警察禮式」が内務省の訓令として出されています。
警察禮式左の通り相定む
但明治十九年当省訓令第十九号は自今廃止す
明治二十四年八月十日 内務大臣 子爵品川彌二郎
全37条からなり、こんな感じで細かく敬礼の仕方を定めています。
第九条 室外の敬礼は敬すべき人に対し姿勢を正し右手を挙げ、諸指を接して食指と中指を帽の前庇の右側に当て左手を以て刀の柄を握るべし。但し佩刀せざるときは左手を垂下すべし。
実はこの条項、現在の「警察礼式」にも同様のものがあります。
(敬礼の要領)
第二十一条 挙手注目の敬礼は、受礼者に向かつて姿勢を正し、右手を上げ、指を接して伸ばし、ひとさし指と中指とを帽子の前ひさしの右端(制帽を着用している婦人警察官にあつては、つばの前部の右端)に当て、たなごころを少し外方に向け、ひじを肩の方向にほぼその高さに上げ、受礼者に注目して行う。
刀がないだけで、ほとんど内容は一緒ですね。現代の方がちょっと細かいですけど。
つまり、どうも現在の「警察礼式」は、過去の「警察禮式」を参考にして作られたのではないか、という推測が成り立ちます。
「警察礼式」の変遷
では、現在話題になっている「何人に対しても、必ず答礼を行わなければならない」も、昔から存在しているのか。
先ほどの明治24年「警察禮式」には、似たような条項が存在しています。
第十六条 職務上人民より正当に礼を受けたるときは、之に答礼すべきものとす。*3
おお、結構そのまんまですな! 「職務上」「正当に礼を受け」るときがどんなときかわかりませんが、泥棒を捕まえてくれてありがとう、というお礼に対してびしっと決める感じでしょうか。
実は「警察禮式」は何度も条項が改訂されています。何度かの細かい改訂の後、明治43年(1910年)に大きく改正されます。
そこに、こんな一文が挟まれます。
第四条 敬礼を受けたるときは何人に対しても之に答礼すべし
おお!全く同じ文言ですね。この後も、「警察禮式」は何度も改訂し、大きく改正もされます。改正の内容を見ると、徐々に天皇陛下や皇族に対しての礼としての礼式の色合いが濃くなります。
敬礼の目的は尊皇の大義を開明にし敬神崇祖の念を涵養するとともに礼節を明にして上下の別を正し信義を敦くして(後略)
また、「警察禮式」は、朝鮮総督府や樺太にも適用されています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1924年06月26日(28コマ目)
国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1923年07月05日(2コマ目)
しかし、昭和12年の最後の改正まで、この「敬礼を受けたるときは…」は残り続けます(昭和12年の改正では第24条)。
陸軍礼式・海軍礼式を参考にしているのか
基本的に「敬礼」というものは軍隊のものであり、恐らく「警察礼式」もそれを参考にしたのではないか、という推察もできます。
恐らく一番古い「陸軍礼式」は、明治6年(1873年)あたりのものと思われます。
例えば、こんな条文は近いものがありますね。
第七条 下士官及び兵卒は帽の前庇の右側に右手を当て掌を外面に向け肘を挙げて肩に齋クシ敬すべき人に注目す(後略)
しかし、ここには、「敬礼を受けたるときは…」に相当する文言はありません。
「陸軍礼式」も、何度も改正をされるのですが、実はそのどこにも「敬礼を受けたるときは…」に相当するものは出てこないのです*4。
これは「海軍礼式」も同様で*5、明治18年(1885年)の初めての制定からも*6、大正3年(1914年)の勅令による制定においても*7、どこにも「敬礼を受けたるときは…」相当の条項は入ってはきません。
つまり、「必ず答礼を行わなければならない」という条項は、警察独自のもの、ということになります。
では、どこからこの「必ず答礼を行わなければならない」という内容がやってきたのか、というのが完璧に調べられると良かったのですが、残念ながら理由がわかりませんでした。西欧の軍隊の敬礼式を真似ているはずなので、そのルールなり条項なりが英文で見つかればよかったのですが、どうも探し出せませんでした*8。
なので、推測にはなりますが、これは警察を管轄する内務省の「敬礼」に対する考え方の違いなのかな、と思いました。陸軍や海軍の「敬礼」が上下の区別や皇族に対する敬意に重きを置く民族的アイデンティティの様相が強くなっていくことに比べて、内務省は「敬礼」の儀礼的な側面に重きを置いたのかな、ということです。警察の「敬礼」の考えは、警察内部に留まらず、あくまで儀礼・マナーとして考えることによって、対外的な側面の考え方ももっていたのではないでしょうか。内務省と軍は仲も悪いですし。
今日のまとめ
①「警察礼式」は明治24年から存在し、「必ず答礼を行わなければならない」に相当する文言もこの頃からあり、現代の「警察礼式」は、この明治の頃からのものを底本としている。
②「警察礼式」は幾度も改正が行われるが、①の文言に関しては常に存在している。
③陸軍・海軍礼式には①の文言については存在せず、内務省の「敬礼」に対する考え方の違いと思われる。
それにしても、いくつか海外の敬礼に関する明文化されたものを探しましたが、日本ほど細かく定めたものは見つけられませんでした。礼儀を重んじているというか、何でも文章化しないと守られないというか。
さて、「警察礼式」は、かように多少の文言の変化はあれど、明治のころからの産物だということがわかりました。現代の「警察礼式」について、現職警察官がどれほど熟知しているかはわかりませんが、一応講義も受けるようですので*9、綿々と受け継がれてはいるんですね。私たちは時折歴史を細切れに考えがちですが、結局今を生きる時代は昔から地続きで、線というより紐のようなものでずっとつながっているんだなあと感じます。
最後にちょっと話はそれますが、現代の「警察礼式」には、第8条以降に、こんな文言もあります。
(敬礼を行わない場合)
第十条 警衛に従事するときは、通常、敬礼を行わない。
2 押送、交通整理に従事する場合等職務の執行上支障あるときもまた前項に同じである。
「警衛」は警察用語の場合は皇族の警護を指すと思われますが、仕事中支障がある場合は敬礼を行わないんですね。これは答礼も同じかと思われますので、みなさん、酔っ払ってみだりに敬礼をしてはいけませんよ。
*1:正確に言えば、「敬礼」はよくある右手を頭らへんにやる「挙手注目」だけでなく、お辞儀や手を胸にあてるものなど色々あります。が、本稿では特に記載がない限り、「敬礼」は「挙手注目」を指すものとします。
また、警察官が行わなければならないのは「答礼」であって、「敬礼」に対する返事とするなら、「答礼」が正確ですね。タイトルはわかりやすいように「敬礼」としましたが、ご容赦ください。
*2:書き下し文なのですが、カタカナでは読みづらいと思うので、ひらがなに直し、適宜句読点をつけています。また、旧字も新字体に直しています。以下も同様です。
*3:前掲「官報2434号」
*4:たとえば「警察禮式」と同じく明治43年の大きな改正のおりにも登場しません。
*5:「海軍敬礼式」と「海軍礼式」の二つの表記が混在していますが、後半は「海軍礼式」で統一されています。
*6:国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1885年03月04日(3コマ目)
*7:国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1914年02月12日(1コマ目)
*8:敬礼についての歴史はよく出てきます。
Who, What, Why: Why does the military insist on saluting? - BBC News
What are the origins of saluting? | History Extra
Saluting in Civilian Clothes: The Rules for Veterans
日本ほど細かいルールで定めていることなんてないのかもしれませんが、国旗や国歌に関する敬礼はなかなか細かいところまで決めてありました。アメリカの例ですが。
Rules for Saluting US Flag | Military.com
子どもブッシュが変えたようですね
*9:長期的に警察学校の教育を受けていない人の教授内容に、「警察礼式」が二時間入っていました。通常の警察学校でも習うと思われます。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1008947_po_keisatukaikaku.pdf?contentNo=1&alternativeNo=(195ページ)