【9月25日追記】
いくつか指摘していただいたり、紙の本でいくつか調査を付け足したりしたので、該当箇所に青字で追記します。
数学で赤点ばかり取り続けた私はあまり数字とお友達ではないのですが、こんなツイートが話題になっています。
ポアンカレ予想で知られる数学者のポアンカレは、馴染みのパン屋が「1キロのパン」として売っているパンが、ちゃんと1キロを目指して作られているのかを検証するために、一年間同じパンを買い続け、重さを記録し、正規分布を割り出すことで、パン屋が50gケチって焼いてることを突き止めたらしい。
— 久下玄 (@kugehajime) 2016年9月21日
エピソードには続きがあり、パン屋の主人は反省して1キロを基準に焼くようになったかに見えたが、ポアンカレは引き続き重さを計り続け、分布に不自然な偏りが出ていることを発見、パン屋が自分にだけ大きめのを渡していて改心してなかったことを突き止めたらしい。50グラムを許さない漢、ポアンカレ
— 久下玄 (@kugehajime) 2016年9月21日
大体、偉人とかそういう逸話は常に眉唾なので、よし調べてやろうと思ったら、迅速に調べられていた方がいました。
「ポアンカレとパン屋と正規分布」おとぎ話の広まりメモ PE2HO
うーん、お早い。そして年代を追ってしっかり調べられていてすてきです。詳しいことは上記をごらん頂くとして、概要について引用をさせていただきます。
・2000年に、買ったパンを量る話がある。内容は「ポアンカレ、1kgが900g」。
・2002年にホランドが実話として本に記載。内容は「ポアンカレ、1kgが950g」。
・2000年代にホランド著の内容は徐々に普及していった。
・2013年ごろからホランド著の内容は総務省サイトに掲載されている。
・2014年に京都女子大では「実話ではないようだが」注釈つきで利用。
・2016年にはツイートで数千RTされている。
という結果でした。どうも、ホランドの著書の内容が「ポアンカレの逸話」として広まっていったのではないか、という推察です。
しかし、「だったらこのパン屋の話の初出はなにか」と気になるのが人情というものですので、当ブログでは、尻馬にのっかる形ではありますが、この「パン屋の不正」の話の初出を探してみました。
ポアンカレは何者か
そもそも、この話は「正規分布」がテーマの話です。ポアンカレは正規分布の人なんでしょうか。
Wikipediaをソースにするのもなんなのですが、彼は1854年-1912年の、フランスの数学者で、「数学、数理物理学、天体力学などの重要な基本原理を確立し、功績を残した」とのことです*1。
一方、「正規分布」は、既に18世紀には理論が提唱されていて、「正規分布」という表現自体も、1875年ごろに独立して導入されたということ*2。ポアンカレとゆかりが深い、というわけでもないかと。
「このパン屋の不正を見抜いたのが、正規分布を理論付けたポアンカレである」という話なら、ポアンカレの名前が出てくるのも頷けるのですが、どうもそうではなさそうです。
ポアンカレの著書には出てこない
ポアンカレの著作はいくつかあるようで、古くから日本で翻訳されています。その中で主要なものをピックアップして読んでみました。図書館に行くのは面倒だったので、国会図書館のデジタルコレクションで読みました。
○『科学と臆説』*3
○『科学の価値』*4
○『輓近の思想』*5
『科学者と詩人』は、デジタルコレクションでは読めないので、直接図書館に行かなければならないのですが、まあ、ポアンカレの科学者・詩人評みたいな話のようなので、自分のパン屋の話は出てこないような気もします*6。
かなり専門的な話もあり、とばしとばしにはなりましたが、少なくともざっと読んだ限りでは、この3冊にはパン屋のくだりは出てきませんでした。とすると、もしこの話がポアンカレの逸話であるならば、ポアンカレの伝記のようなものが、初出ということになるでしょう。
ジョージ・ガモフの著書に同じ話がある
【9月25日追記1/4】
日本語訳版の『数は魔術師』を読んでみました。訳書には(おそらく原本にも)注釈がついていて、
この事件は第2次大戦後のハンブルグで本当に起こったことで、カール・ゲーデ博士が著者に教えてくれたものである*7。
とあります。この注釈をどこまで信じればいいかはわかりませんが、実話であればやはりこの『数は魔術師』が、「パン屋の不正」の話の元ネタとなります。もしこの「カール・ゲーデ博士」から聞いたという話が創作か、あるいは博士自身の作り話であれば、もしかするともう少し昔から、「パン屋の不正」と正規分布の話はあるのかもしれません。
とは言っても、そもそもこの「逸話」は、ポアンカレのものではないのでは、という説の方が有力なわけです。「ポアンカレの逸話」としてではない、単独での話を探したほうが早いかもしれません。
記事の頭に載せた「PE2HO」さんの記事によれば、パンの質量が「950g」という数字もだいぶゆれているようなので、数字をいろいろ変えたり、「パン」とか「不正」とかのワードをごちゃごちゃいじりながら検索してみると、面白いPDFがひっかかりました。
野村総合研究所の何かのパンフレットのようで、タイトルは「統計的性質で不正を見抜く」。
http://www.nri.com/jp/opinion/kinyu_itf/2007/pdf/itf20071008.pdf
「次のような問題を考えてもらいたい」として、以下の問題が載っています。
戦時下の或る国でパンの配給制度がとられることとなった。即ち、国民一人の一日当たりのパン配給量が200グラムに制限され、各パン屋は200グラム用の型を使ってパンを焼き、国民に配るように指示されたのである。(中略)このため、ある悪徳パン屋がいて、隠れて195グラム用の型を使い5グラム分の小麦を着服していたのであるが、個々のパンの重量だけでは不正を見つけることは難しかった。とりわけ、このパン屋は悪知恵に長けており、当地区の検事官に届けるパンだけは200グラム以上に焼きあがったものを選別して届けていた。(後略)
おお、とても似た話ですね。日付は特にないのですが、PDFの名前から察するに、2007年10月8日のもの。記事は、統計学を使って分布に偏りが出てしまうことから不正がばれてしまう、という話になっており、野村らしくヘッジファンド経理の適正チェックの話とからめて終わっています。
この資料のいいところは、問題設定の引用が書かれているところです。それによると、引用した本は、ジョージ・ガモフの『数は魔術師』(白揚社)。
1958年とずいぶん古い本です。英語の原題は「Puzzle Math」*8。これも1958年出版のようです。
この本は、ガモフが、日常にある数学的発見や応用を、わかりやすく書いたものとして、そこそこ話題になったようです。
著作権が切れている(だと思う)のか、全文が拾ってこれたので*9、その中からパン屋のくだりを探してみると、ありましたありました。
BREAD RATIONING
After Germany had lost the war, the economic situation of the country rapidly deteriorated. All food was rationed, the most important item, bread, being limited to two hun-dred grams per person per day.
パンの配給
敗戦後のドイツでは、国の経済状況が急速に悪化していた。全ての食べ物は配給であり、最も重要であったパンは1日一人当たり200g制限された。
第二次大戦後のドイツが舞台なんですね。で、こう続きます。
Dr Karl Z., an old physics professor, stopped at the bakery each morning on his way to the university to get his daily “lion. One day he said to the baker in his district, “You are a bad man and are cheating your customers. The forms you are using are five per cent smaller than they should be for baking 200-gram loaves, and the flour you save you are selling on the black market.”
老物理学者のカール博士は、大学の道すがらにあるパン屋に毎朝立ち寄るのを日課としていた。ある日、彼はそのパン屋に言った。
「君は悪いやつだ。それに客を欺いている。この型は200gを焼くのに5%小さいだろう。で、ちょろまかした小麦粉は闇市に売っているんだ」
これに対してパン屋の主人は「そんな全くおんなじパンなんて作れないですよ」と反論しますが、博士は「私は研究所で君のパンの重さを数ヶ月量ってきたんだが」と、おなじみの論法で論破するわけです。
“You see that, whereas some loaves weigh as little as 185 grams and others as much as 205, the average weight obtained in mean measurements is 195, instead of 200. ”
わかるか、パンの重さは最小で185g、最大で205gになるにも関わらず、平均は200gの代わりに195gとなるんだ。
細かい数字が今流布しているものとやはり違いますね。で、震え上がったパン屋は、「どうか当局には言わないでください」と、ちょろまかしをやめることを誓ったのですが、博士は数ヵ月後に訪れて、「君を告発した」とパン屋に言うわけです。「いやいや200gを下回るのなんか渡しましたか?」と反論するパン屋に、博士は「ドイツの偉大なる数学者、ガウスの正規分布で解説してやろう」と、正規分布のグラフを示し、パン屋の不正をまたも暴いたわけです。なるほど、わざわざ設定をドイツの物理学者にしたのは、ガウスの名前を出したかったからなんですね。
【9月25日追記2/4】
「Dr Karl Z」という物理学者ですが、私はてっきりマンハッタン計画のカール・モーガン博士かと思ったのですが、『数は魔術師』の注釈には「カール・ゲーデ博士」とあります。調べてみると、生物学者の方が引っかかるのですが*10、年代的にはありうる話ですが、この方を指しているのかは不明です。
ちなみに、「Dr Karl Z」という物理学者は存在します。
Karl Z. Morgan - Wikipedia, the free encyclopedia
「マンハッタン計画」の主要な人物として有名で、原爆製造に関わったアメリカの物理学者です。後年は反対派に転じたようですが。なので、名前はあれですが、彼は生まれもアメリカのようなので、ドイツにいたということはなさそうなので、これは創作でしょうか。
なぜKarlの名前をわざわざ使ったのかは不明ですが、他の話にも、数学者や歴史上の人物の名前が使われており*11、「実在の名前を使う」というルールでガモフが話を書いたのかもしれません。
ポアンカレの名前はどこからやってきたか
【9月25日追記3/4】
はてぶなどでいくつか指摘があったのですが、「パン屋が不正をする」という話自体は、既に13世紀のころからあるそうです。
はるか昔から、小麦粉のちょろまかしは存在していて、寓話としても広まっていたわけです。
恐らく、ガモフの話は(カール博士の話は)、「パン屋は不正をする」という歴史的な寓話が下敷きになっているはずです。そして、ガモフの話が広まったことで、数学者の名前と結びつくことになった。この「パン屋の不正」と正規分布の話は、ガウスが主語で語られることもあるようです。
Archives » ヤクザの方がまともに見える……( 2009-05-49 07:05:49の投稿)
現代の数学は枝分かれしすぎており、数学の主要分野すべてに貢献できたのは、ガウス、そしてポアンカレが最後だといわれています*12。ガウスは正規分布のガウス分布から名前が使われるようになり、そして最後の「数学者」ポアンカレが、その名を引き継いだ、という解釈もできます。
なので、以下の項の「ミレニアム懸賞問題」説は、ちょっと信憑性が薄いですかね。2000年の投稿のeverything2のサイトも、都市伝説として載せているという指摘もありましたし、1999年にはボストン科学博物館で同じような話がポアンカレの逸話として指摘されたという情報もあります*13。しかし、現在流布している「ポアンカレの逸話」の下地は、その類似性からも、やはりこのガモフの話だと考えていいのではないでしょうか。
では、いつからこの話が、「ポアンカレ」のものとして流布されるようになったのでしょうか。
「PE2HO」の方が指摘されているように、「ポアンカレとパン屋」として書かれている一番古いものは、ネット上では2000年5月の投稿のものになります*14。
ネット上で見られないからといって、これが最古のものとは思いませんが、この辺りから「ポアンカレ」と「パン屋の不正」の話が結びつき始めてきた、という推測ができます。
この時期に「ポアンカレ」の名前が出てくることといえば、「ミレニアム懸賞問題」です。
アメリカのクレイ数学研究所が、2000年に発表した、7つの数学上の問題のことです。100万ドルという大きな懸賞金がかけられたことも有名ですね。この7つの中に、ポアンカレ予想も入っていました。また、2003年にはロシアの数学者がポアンカレ予想を解いたことでも有名です。
ということで、数字といえば数学者、そしてその当時話題になった懸賞の中にあった「ポアンカレ」の名前が付け加えられ、それが検証されずに本の中で紹介され、広まっていったという経緯ではないでしょうか。
今日のまとめ
①ポアンカレと正規分布などの統計学に直接的な関係はない。
②1958年出版のガモフの著書、「Puzzle Math」の中に、数字だけが変わった全く同じ話が掲載されている。
③その中では、ポアンカレではなく「Karl」博士というドイツの物理学者の話として掲載されている。Karl博士は実在するが、アメリカ人であり、話自体は創作のようである。
④ポアンカレと「パン屋の不正」の話が広まり始めたのは2000年ごろと推測され、その頃話題になった「ミレニアム懸賞問題」の「ポアンカレ予想」と結び付けられたのではないか、という推測も成り立つ。もう少し昔からあり、どこで結びついたかは正確にはわかりませんでした。ただ、偉大な数学者としてガウスの名前が使われることもあり、ポアンカレはその系譜を継いだようにも見えます。
この「パン屋の不正」の話自体は、統計学の基礎として、どうも色んなところに引用されているようです。未確認情報ですが、他のツイートの中で、数学の本の中にあったという話もありました。
@kugehajime @tabitora1013 懐かしいです、その話し。https://t.co/gqJbjYXcdr
— のほほん (@cartmanny) 2016年9月22日
この本に書いてあったのを思いだしました。中学の時の課外クラブでひたすらデータ取らされたっけ。今にして思えばその時やったことが仕事になってますw
この本は1974年のものなので、この中の「パン屋の不正」の話がポアンカレのものとして書かれていたら、「ミレニアム懸賞問題」の話はパーになりますが((図書館にありそうなので調べて追記しますね本文中に追記しました))、少なくとも「パン屋の不正」の話が載っていたのであれば、結構昔から、色んなところで「数学的問題」として引用されていたんだな、ということになります。ある界隈では、この話自体はよく知られたものだったのでしょう。
【9月25日追記4/4】
上記のtwitterの本を確認したところ、確かに「ガモフのパン屋」という章立てで、パン屋の話が載っていて、『数は魔術師』を下敷きにしているということでした。ちなみにカール博士ではなく、「おじいさん」になっており、少なくともポアンカレではないです。
【追記ここまで】
格言に何でも「カントが言った」とつけるとそれっぽくなる、みたいな話を前にどこかで聞いたことがあります。しかし、それが人口に膾炙するためには、やはりその格言なりエピソードが、人の心をうつものでなければいけません。「ポアンカレ」ではなさそうですが、やはりこのパン屋の話は、日常の数学的物語として、よくできているということなんでしょう。
もしかすると、ポアンカレの誰かの評伝としてこのパン屋の話が出てきたのかもしれないですけど。また読んだら更新します
*7:『数は魔術師』P120
*9:http://www.arvindguptatoys.com/arvindgupta/puzzlemath.pdf
*11:たとえばTWELVE IN ONEの章では「The great Sultan Ibn-al-Kuz 」という10世紀の数学者を主人公として載っています。
*12:『天才たちは学校がきらいだった』トマト・G・ウェスト(講談社サイエンティフィク)
*13:http://mathforum.org/kb/message.jspa?messageID=1382305))。なので、これについては参考程度に読んでください。
無論、ガモフがこの話をどこからか仕入れてきて、自分の著書に載せたという可能性は残ります。ポアンカレの伝記を全て読めるわけでもないですし、一応、ポアンカレの逸話という可能性は可能性としては残ります((限りなく低いとは思いますが、調査は続行しているので、見つけたら更新します。もう少し高い可能性としては、この「パン屋の不正」自体の話は、ガモフが書くよりももっと前にあったかもしれないということです。それを、ガモフが広めたという可能性なら、考えられるかもしれません
*14:フランス語圏で発見できたものは、2013年のものでした。
Loi binomiale : pain de Poincaré - Forum mathématiques première probabilités - 546015 - 546015
「創作された話」ということで紹介されている、「ポアンカレ」抜きの話は2009年。