曽野綾子というと保守論客の最たる御仁ですが、彼女についてこんな記事が話題になりました。
「老人を抹殺すること」を肯定するかのような小説を書いていながら、いざ夫が認知症にかかると、そんな小説を「もう書けない」と言って、自分自身が「利己的な年寄り」なのではないかと批判しています。
私は全く曽野綾子とは遠い場所に位置しているので、彼女を擁護するつもりは毛頭ないのですが、しかしこのリテラの記事には重大な「事実の歪曲」があり、言論に携わるものがそりゃないだろうという感じがしたので、記事の問題点をいくつか検証させていただきます。
「もう書けない」の意図について
リテラの記事の要点を列挙すると以下の通りです。
①高齢者への過剰な福祉サービスを批判してきた曽野綾子の夫が認知症となり、自宅で介護をすることとなった。
②曽野は『二〇五〇年』という老人を抹殺することを肯定するような小説を発表した。
③しかし、自分の夫の介護が必要になると、「いまなら書けない」と言い出した。
④にも関わらず、高齢者の権利を否定する発言は続けており、他人だけ批判するなんて利己的なのではないか。
というわけで、読みたくなるのがその週刊現代の記事です。なるべく私は記事をかくときにお金をかけないのですが、図書館は予約でいっぱいだったので、不承不承取り寄せをしました*1。
さて、リテラでは、老人抹殺小説たる『二〇五〇年』を、夫の介護に携わるようになったから「書けない」と、発言しているように読めますが、記事を読むと、どうしてもそういう風には読めません。該当箇所を引用しましょう。
日本が老齢人口の過剰に国家として耐えられなくなってくるだろうということに気がつきだしたのは、もうずいぶん前のことだが、私がそれを作品に書いたのは二〇一三年末のことである。私はその小説を、一種の未来小説として書き、『二〇五〇年』という題を付けたのだが、この危険で破壊的な小説の内容は、当時あくまで空想上のことであった。むしろ現在だったら、私はこの作品を書けなかっただろう。*2
この「現在」を、リテラは「介護を始めたことで」と捉えたわけですが、どうもそのすぐ続きを読むと違います。長いのですが、大事な部分なので全て引用します。
最近の世相には、小説の中ですら、暗い話、非道徳的な話を書いてはいけないとするおかしな幼児性が、主にマスコミ自体の中に顕著に出て来たからである。(中略)どういう点が危険だったかというと、私は作品の中で、若者のグループが老人ホームの火事によって、多勢の焼死者が出たのを喜ぶという場面を書いているのだが、それはあくまで社会の末期的な暗い状況として描いたので、今ならば、相模原市の知的障害者施設の元職員・植松聖という人が、「不要な人を社会から抹殺することを目的に」、十九人を殺し二十七人に重軽傷を負わせた事件があったから決して書かなかったに違いない。*3
いかがですか、曽野が「今ならば」「書かなかった」と言っているのは、あくまで、現実の事件との関連性が強すぎるために「書かなかった」と言っているのであり、決して「夫を介護するようになったから」ではありません。どこをどう読んだらそうなるんだ。これを歪曲といわずしてなんといいましょう。
むしろ、小説であるにも関わらず、「そんな恐ろしい考えを正当化する小説を、曽野は何のためらいもなく発表していたのだ」とか無邪気に書いちゃうリテラのようなメディアを、彼女は「おかしな幼児性」と皮肉っている立場なのです。
『二〇五〇年』は老人抹殺を肯定しているか
そもそも『二〇五〇年』は、リテラのいうように「老人抹殺」を「正当化」している小説なのでしょうか。読んでみました。
主人公の宮坂次善は、人口の減少により、福祉サービスの行き届かなくなった荒廃した2050年の日本の、ある放擲された空き家に住んでいます。小説は、その空き家に住む主人公が感じた2050年の日本の様子を淡々と書いています。
確かに、リテラの言うように、この時代の若者は、「老人とみれば」「殺すことに手を貸すことがいいことだと信じている若者が主流になってきた」という描写があります*4。しかし、主人公はその原因を、「タブレットの中にしか自分の世界を感じられなくなった人種が主流に」なったから*5と、批判的です。
「75歳の男性主人公は、それを当然のことだと受け止めている」とリテラは書きますが、この「当然のことだと受け止めている」のは、「若者の老人抹殺」ではありません。あくまで、「長寿」を追い求める過剰な医療サービスがなくなり、「半ば意図的に死を受け入れる」この状態を「人間を取り戻している」状態として「受け止めている」のです*6。この記事を書いた人はよほど読解力がないと見えます。
むしろこの主人公は、「老人抹殺」の行為には否定的です。たとえば、老人ホームに若者が火をつけ、凱歌をあげているという場面で、彼はこう思います。
ついにここまで来たか、と私は思った。今も老人たちは、一日でも長く生きることを望んでいる。生きるに値する人生かどうかは別として、生きることを疑わない人が今でもたくさんいる。人間は生きるようになっていることに私も賛成だ。それを無理やりに死なせることは不自然だ。だから私は炎の中から聞こえていた「年寄りを片づけたぞ!」という若者の凱歌に、やはり言いようのない嫌悪を覚えはしたのだ。*7
どこをどう読んだら、この『二〇五〇年』が、「老人抹殺」を「正当化」する小説に読めるのでしょうか。想像力がないのはどっちだ、と皮肉のひとつも言いたくなります*8。
大体、「残酷なことは想像するな、書くな」というリテラの書きぶりは、小説家に対する冒涜ではないでしょうか。世のミステリ作家は全て殺人を肯定している、とでも言い出すのでしょうか。論理が破綻しています。
曽野綾子の一貫性
この曽野綾子の、高齢者の「長寿」への批判は、何も今に始まったことではありません。曽野のエッセイは溢れかえっているのですが、まだ若い時分から、「老い」についてたびたび言及しています。
たとえば、曽野が41歳の時に出版した、『戒老録』(1972)では、こう書かれています。
つまり、平均寿命に近くなって病気を発見し、それから何年も格闘して生きるより、病気を知らずに自然の寿命を保ったほうがいい、と思うからである。*9
同じようなこと、67歳の時に書いた『中年以後』でも語っています。
中年以後は誰でも、どこか五体満足ではなくなるのだ。その運命を私たちは肝に銘じて受け入れるべきなのである。(中略)
病気が治りにくくなるということは、死に向いているということだ。それは悲しい残酷なことかもしれないが、誰の上にも一様に見舞う公平な運命である。*10
その後の最近のものでも、胃瘻のような延命処置が「自然な死に方を妨げる」という批判や*11、高齢者の増加による医療費の問題から、「長寿社会の実現に与した医師や行政官の責任」*12をあげつらいます。要は、何十年も前から、曽野は、この「長寿社会」に疑問を投げかけ続けてきたのです。その上で考えるなら、『二〇五〇年』という小説は、特段珍しくないものとなります。
また、曽野の主張は常に「高齢者の美学」のような様相であり、「社会保障なんか一切老人にかけるな、全部自己責任でしろ」ということではありません。「年寄りが社会のお世話になるといういうのは致し方ない」とし、ただ「世話になって当たり前」という風潮に疑義を呈しているというわけです*13。リテラは、曽野が夫に対して公的な医療サービスを使うことにも「利己的」と批判していますが、気持ちはわかりますが、ニュアンスをとりちがえているかなと思います。
むしろ、曽野のこの「自宅で、夫を介護する」という連載は、その夫である三浦朱門が、自身と妻の父母を介護した体験を記した『四世同堂』(朝日新聞社)を意識しているだろうと思いました。
これは、三浦が朝日新聞に長期間連載した、介護や老いにまつわる随筆なのですが、ボケのことであったり、老人の問題であったり、様々な視点から書いていて面白いです。三浦も基本的には曽野と似た考えであり、「「楢山節考」はあるいは次第に増えつつある老人たちのあこがれであろう」*14と、長寿にばかり傾いている現状を批判的に書いています。
曽野は、この三浦が描いてきた(そして共に体験してきた)老いの諸問題についての、ひとつのアンサーとするのではないか、という気がします。一貫して行ってきた自分の老いに対する思いを、今度は実践として報告をするというわけです。連載2回目で、曽野はこの連載を引き受けた理由を、「作家は、美も醜も、道徳もふしだらも、成功も失敗も、同じような姿勢で書ける訓練を積んでいる。だからうまくいけば報告書になるのである」とつづっています。草の根の活動を行ってきた作家らしい言葉とも言えます*15。
今日のまとめ
①曽野綾子が『二〇五〇年』を現在は「書けない」理由としたのは、現実に似た事件が起こったためであり、自身の介護問題が理由ではない。
②『二〇五〇年』は、老人を襲撃する若者の話は出てくるが、主人公はその行為に嫌悪感を抱いており、決して「老人抹殺を正当化する」小説ではない。
③曽野の高齢者に関する主張は昔から一貫しており、今回の週刊現代の連載はその実践報告のような様相である。
このリテラの記事を書いた水井多賀子という人は、調べた限り左よりの方らしいのですが、確かにそういう立場の人にとって、曽野綾子というバリバリの保守派は、政敵と言えるでしょう。しかし、立場でものを書くのは食べるためなので仕方がないとは思いますが、立場でものを考えるようになると、こんな風に自分の都合のいい解釈でしか世の中を眺められなくなります。
誤解がないように何度も言いますが、私は曽野綾子の考えに賛同しているわけではありません。特に、以前にあったアパルトヘイトの発言などは*16、さすがに稚拙であると言わざるをえません。
しかし、考えを批判することと、その人自身を批判することは似て非なるものです。私は曽野綾子とは遠い立場にいながらも、彼女が草の根で行ってきた活動、そしてその生き方に対しては敬意を払います。彼女の根本にはキリスト教徒としての、神との対話があるのでしょうが、左だとか右だとか、そういった着せ替えできる理論でもって語られるものではありません。曽野は自分を「保守論客」などとは思ってはいないでしょう。彼女は彼女の生き方で納得したものを、そのまま言葉にしているだけなのだと思います。それを、立場でものを考える人は、右だ左だと言う訳です。
昨今のツイッターやなんやらの炎上案件は、そういった考えの否定ではなく、人間の否定を助長するものばかりです。だからキリストはこう言ったのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
*1:フォロワーさんから、インターネットで読めることを教えてもらいました。
曽野綾子独占手記 夫・三浦朱門を自宅で介護することになって(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
全文読んで、真偽を確かめたい方はどうぞ。うーむ、勿体無いことをしてしまった…
*2:「週刊現代」2016年9月24日・10月1日号 P58
*3:同上 P58-59
*4:『小説新潮』2014年1月号P19
*5:同上 P21
*6:同上 P21より抜粋
*7:同上 P28
*8:とは言っても、小説として読む限り、この『二〇五〇年』はちょっと完成度が低いかなと思います。近未来小説としてみるには設定が貧弱だし、何より、曽野の今までいろんなところに発表してきた自分の考えが、出来の悪いパッチワークのように張り巡らされ、非常に読みづらい。曽野はこの作品を連作にするようなので、全体の物語として完成したら、少しは違うのかもしれませんが
*9:『完本 戒老録』祥伝社文庫P237
*10:『中年以後』光文社1999 P150
*11:『人間の基本』新潮社2012年P151
*12:『想定外の老年』(ワック)2013年 P183
*13:『週間ポスト』2016年2月8日号
*14:『四世同堂』(朝日新聞社)昭和62年P176
*15:曽野綾子は2005年まで日本財団の理事長を務めています。『日本財団は、いったい何をしているのか』(木楽舎)2015年を読みましたが、まあ提灯記事っぽい書き方とはいえ、現場をよく見て、よく働くなあという感じです
*16:
曽野綾子氏コラムに「アパルトヘイトを賛美し、首相に恥をかかせる」海外メディア報じる
全文表示 | 曽野綾子氏「アパルトヘイト許容」に反論 「チャイナ・タウンなどはいいもの」と発言、「火に油」状態に : J-CASTニュース