また今年もノーベル賞の季節がやってきました。この季節になると、全国のハルキストはそわそわしだすみたいですね。
今年はボブ・ディランというサプライズであり、毎年外野にワイワイやられる村上春樹もかわいそうなもんです。
私は、ブログタイトルからもわかる通り、村上春樹は結構好きです。もちろんタイトルは
からとりました。ちなみに『羊をめぐる冒険』は英訳名が"A Wild Sheep Chase"。これは"A Wild Goose Chase"という英語のイディオムをもじったものです。このイディオムは16世紀に遡る表現で、当時の競馬用語のひとつ。先を駆ける一頭の馬のあとを上手に他の馬が正確な距離を保って走ることを当時は目的としていて、そのキレイな馬の列がV字に飛ぶ雁を想起させることから、「野生雁の追跡」という名称で形容されるようになったんだそうです。それが、イディオムとして「何かを手に入れようといろいろやったけれど、結局それは時間の無駄だった」みたいに変化していったんだそうです。この小説にふさわしいオシャレな英訳ですね*1。当ブログも、ファクトチェックという「いろいろ確かめてみたけどやっぱり正しかった」という無駄足の作業がメインなので、それにあやかってつけました。
閑話休題。
昔はあまり好きではなかったのですが、英語の勉強がてらに読んだ英訳版*2が面白くて、それから読むようになりました。ハルキストのような傾倒は特にないのですが、時間が経つと読み返したくなる、不思議な作家です。小説については賛否両論がもう何十年と続いているわけですが、エッセイやら対談やらについて否定している人をあんまり見ません。
というわけで、そういう彼の「小説以外」の私的なオススメをしてみたいかなあと思います。
野球について
村上春樹がヤクルトファンであることは有名かもしれませんが、野球に関する話をよく書いています。結構面白い。
でも、ヤクルトの土橋ってなんだか信用金庫の外回りみたいな顔してるじゃない。あんな顔して野球やってるのって変だよ。
「95年日本シリーズ観戦記「ボートはボート」『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮文庫)P22
なんてコメントはなかなか傑作です。その後で、「十七年前」の日本シリーズの熱戦を「昔つきあっていた女の子のことを思い出すみたいに、一人でぼんやりと思い出していた」と表現するあたりが、うまいなあという感じです。
野球の話で私が好きなのが、『村上朝日堂の逆襲』(新潮文庫)の中の、「ヤクルト・スワローズについて」というもの。
神宮球場が好きで「その結果としてヤクルトを応援していた」村上が、女の子と巨人戦を見ていたときの話。平凡なフライにも関わらず、ヤクルトの右翼手が「グラブの五メートルくらいうしろ」にポトリと落としてしまった場面を見て、女の子が言います。
「ねえ、あなたが応援してるのはこのチームなの?」と女の子がきまり悪そうにもじもじとしている右翼手を指さしながら僕に訊ねた。
「まあね」と僕は答えた。
「別のチームにした方がいいんじゃない?」と彼女は言った。
「ヤクルト・スワローズについて」『村上朝日堂の逆襲』(新潮文庫)P79
それでも応援し続ける自分について、「ゆきずりの情事があとをひいて」と表現しています。村上なりのちょっとひねくれた愛が伝わるいい文章だと思います。『村上朝日堂』シリーズは、こういう緩くてちょっぴりエスプリのきいた話が多くて手軽に読むのにいいですね。最近の『村上ラヂオ』が個人的にはイマイチなので、よく読み返しています。『村上朝日堂』シリーズの中では、『村上朝日堂はいほー』の「ささやかな時計の死」が味わい深くて好きです。
アメリカについて
村上は海外生活が長く、いろいろなところに何年かまとまって住んでいるのですが、大学の講師として渡米したときのことをまとめた『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)は、かなり完成度の高いエッセイだと思います。
1991年から4年間の、プリンストンとケンブリッジの生活のことの雑感を書いているのですが、もう十年以上前にも関わらず、その文章は色あせない。私はこの中では「大学村スノビズムの興亡」が秀逸だと思います。
「大学村スノビズムの興亡」では、新聞の購読の話から始まり、「プリンストン大学村」の「大学人かくあるべし」という規範意識について取り上げています。この「大学村」の教授やらなんやらにとって『NY・タイムズ』を読むことや、ハイネケンやギネスやらを飲むのがコレクトであり、『トレントン・タイムズ』というローカル・ペーパーを読んだりバドワイザーを飲んだりするのは「あまり褒められたことではない」そうで、「新聞からビールの銘柄にいたるまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確」なんだそうです。
しかし、村上はそのことについて批判的なのではなく、「日本みたいな「何でもあり」」という流動的社会からくると、こういう姿勢は「ほっとする」部分もあると書き、そして日本の社会について言及します。
でも日本ではそう簡単にはいかない。(中略)情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が創造に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。
本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭において、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。
「大学村スノビズムの興亡」『やがて哀しき外国語』P47
「文化的焼畑農業」という表現が愁眉ですが、これって、今の日本だって十分に当てはまることだと思いませんか? こういう世の中の見方を、的確な言葉で表すというのが、作家の本領だと思います。
作家の姿勢について
あまりメディアに登場しない村上ですが、海外での講演はときどきやってますし、インタビューや対談はまあまあ行っています。
インタビュー・対談の中で私が面白いと思うのは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』です。
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)
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これは、主に海外の記事をメインとしながら、1997年から行われた村上春樹へのインタビュー及び対談をまとめたものです。軽く読めるエッセイとは違って、ソリッドなその言葉は、小説では読みとりきれない、村上の「文学」に対する姿勢のようなものが感じられます。
このなかでは、”THE BELIEVER BOOK OF WRITERS TALKING TO WRITERS"が行ったインタビューがよいです。
小説家の役割はひとつひとつの意見を意見を表明することよりはむしろ、それらの意見を生み出す個人的な基盤や環境のあり方を、少しでも正確に(フランツ・カフカが奇妙な処刑機械を異様なばかりに細密に描写したように)描写することではないか、というのが僕の考え方です。極端な言い方をするなら、小説家にとって必要なものは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的作話システムなのです。
『夢を見るために毎朝ぼくは目覚めるのです』P367
小説家に対する村上の姿勢がよくわかる言葉です。
この言葉を受けるようにして、というわけでもないのでしょうが、エルサレム賞受賞の挨拶の「壁と卵」は、彼の「個人的作話システム」を垣間見ることができます。
エルサレム賞を受けることは、国内外で強い反発があったようですが、あえて受賞した理由を彼は「自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない」として、「何も言わずにいるよりは、話しかけることを選んだ」と語っています。そして、こんなメッセージを投げかけます。
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
「壁と卵」『雑文集』(新潮文庫)P97
自分たちひとりひとりを「かけがえのないひとつの魂」をもった「卵」と称し、「システム」を「壁」だとしています。「システム」は「本来は我々を護るべきはずのもの」なのに、あるとき「独り立ちして」、「我々を殺し、我々に人を殺させる」と語ります。小説家の仕事は、卵がシステムという壁にからめとられることのないよう光をあて、「個々の魂のかけがえのなさを明らか」にすることだと言います。
システムに我々を利用させてはなりません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
「壁と卵」『雑文集』(新潮文庫)P100
村上春樹という作家の価値については未だに根強い反感があるとは思いますが(私もそうでしたし、いまも感じる部分もあります)、イスラエルの地に立って、この言葉を話せる日本の作家というのは(日本に限らずとも)、そうそういないでしょう。
というわけで、いくつか村上春樹の「小説以外」をオススメしてみました。書いてみたら以外に長くなってしまったので、そのうち気が向いたら、他のものも紹介してみたいなあと思います。
*1:以上、『英語で読む村上春樹』2015年5月号を参考にしました
*2:
これの英語版です