ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

【情報求ム】雨乞銭は存在するのか、どこであれ資料が見つかりそうな場所で

少々旧聞ではございますが、以下の話題を覚えておいででしょうか。

 

 

この五円硬貨が、実は「雨乞銭」と呼ばれる、雨乞いをする際に使われた技法なのではないか、ということで、驚きの声があがっておりました。

 

そんな話ではあったのですが、疑り深い私としては、現実にそんな風習があったのか、というところが大変気になったため、そこのところを調べてみました。私なりの結論としては、「古くから硬貨に傷をつける風習はあったが、雨乞いと関係するかは不明」なのですが、資料が乏しく、情報がある方がいれば募集中です。

 

【目次】

 

 

「雨乞銭」は古銭界隈で知られていた

意外なことに、ニコニコ大百科の項目が、ネットの中では「雨乞銭」の情報を手堅くまとめています。

 

円形の貨幣に放射状に傷をつけて雨を振るのを祈る。その形状が番傘を連想させるため、傘がいるような状態即ち雨ふりを思い起こさせることから発生したようだ。

雨乞い銭とは (アマゴイセンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

この話題が出てから立項された項目のようなのですが、項目内に「雨乞い銭はWikipediaやコトバンクの各種百科事典にも2020年11月時点で項目がなく」とあるように、ネット上ではほぼ情報がありません。

 

引っかかるのは主に古銭関連

 

page.auctions.yahoo.co.jp

 

雨乞い銭は、銭貨の面背あるいは背のみに筋を刻んで降水を祈願するもので、面のみのものを見ません。

新寛永通寶分類譜【刻印銭・その他の類】

 

通常、雨乞い銭は通用貨に切込みが入っているものが多いですが、これはもとが何だか摩滅していてわかりません。

雨乞い銭: コイン収集日記

 

ニコニコにもあがっている『古銭語事典』(大鎌淳正)にも記述がありました。ちなみに読みは「あまごいせん」です。

 

干天続きに、農民が雨の降らんことを願って、寛永通寶などの通用銭を、中央から輪に向って放射線状に、ヤスリで溝を多数に彫り、雨傘に見立てて、この雨傘が必要になりますよう雨を降らせて下さいと神仏に供えたもので、この風習は古くから各地にあった

 

ニコニコは増補改訂版(1997)を参照していますが、1978年の改訂前についても全く同じ記述があり、 少なくとも1978年、もしくはそれ以前からこの「雨乞銭」については古銭業界では知られていた、と言えそうです。

 

他にも、学術的な論文に名称が掲載されている例もあるのですが、それについては後述します。

 

民俗学上の「雨乞銭」

さて、攻略の仕方としては、まずは「雨乞い」の民俗学的な観点からこの「雨乞銭」が存在するかどうか、というところ調べます。

 

雨乞いに関する研究で絶対に欠かせないのが、高谷重夫の『雨乞習俗の研究』(法政大学出版局・1982)です。国内の雨乞いに関する風習を、数多の文献から網羅しており、私が知っている限りでは、これが日本の雨乞いに関する研究のひとつの到達点であり、その後の研究の基礎になっています。

 

で、紐解いてみるのですが、残念ながら「雨乞銭」についての記述はありません。ひとつも。高谷が1982年ですので、古銭語事典の記述が1978年ということを考えても、この高谷の後に発見されたということもありません。

 

高谷は、雨乞いの習俗について、「雨乞法の類型分類試案」ということで、大きく以下のように分類をしています。

 

第一類(祭場・祭具の浄化、祭場標示)

第二類(神出御)

第三類(神饌・幣物)

第四類(神態)

第五類(芸能)

 

一つ一つについては細かく記しませんが、今回の「雨乞銭」は、第三類の「神饌・幣物」にあたるものと思われます。例示されているのは、水や酒といった神様へのお供え物、牛や馬と言った動物の供物、あと意外によくあるのが、汚物を投入したり洗ったりするというもので、池に骨をなげたり滝に小便したりすることで、神様を怒らせて雨を降らせる、と考えられたものもあります*1。しかし、前述した通り、その中で、貨幣を扱うという記述は見られません。

 

任章赫は『祈雨祭』(岩田書院・2001)において、韓日の比較民俗学的研究を行っているのですが、その中で民間における雨乞い儀礼の成立や過程を論じています。もちろん「雨乞銭」は出てこないのですが、やはり農耕技術との関係から成立を説明しています。そう考えた時に、「貨幣を供物とする」という行為は、かなり近代的な考え方ではないかなあと思います。

 

他にもいくつか雨乞い研究や、記述のある書籍を読みましたが*2、いずれにも記述はありません。もちろん、数量的に資料が足りていないのはわかってはいるのですが(国会図書館め…)、ただ、古銭語事典の言うように「古くから各地にあった」とするには、あまりにも記述が無さすぎるのが気になります。

 

「傘」と雨の関係

少し視点を変えて、「雨傘に見立て」という点から考えたいと思います。

 

雨傘としての利用は、日本では鎌倉時代中期から見られるそうですが*3、一般的になったのは江戸時代に入ってからでしょう*4。しかし、これは都市部の話であり、「雨乞い」の主体であろう農村部において、どれだけ一般的だったかは疑問が残ります。つまり、馴染みのないものを、果たして儀礼として使用するのかどうか、ということです。

 

これが、「笠」であるならばわかります。頭にかぶるやつですね。雨雪をしのぐときに、少なくとも農村の間で一般的だったのはこちらではないでしょうか。そして、「笠」に関係する雨乞習俗であれば存在します。

 

高谷は、各地に伝わる念仏踊りの中に、「雨乞い」に関係する習俗があることを発見しています。念仏踊りは、「笠」を使うものが多いのですが、「雨」や「水」を、笠に書いて踊るものがあるそうです。

 

多可郡八千代町中村 (中略)千石踊り。(中略)踊り子の少年は笠を着、軍配と榊を持つ。これに、「雨」・「水」等の字が記されている。

高谷(1982)P635

 

他に有名なところでいえば、鳥取の「傘踊り」があるでしょうか。これは長柄の傘を使って踊る踊りではありますが、元は「笠」で雨乞いをしたという言い伝えがあります。

 

鳥取市国府町では、江戸時代末期に大干ばつになった年に、五郎作(ごろさく)という老爺が笠を持って雨乞をしたところ、数日後に雨が降り大飢饉を免れたが、五郎作は雨乞の疲れがもとで亡くなったため、その霊を慰めようと五郎作の初盆から笠を手に踊るようになった。その後、明治29年頃、鳥取市国府町高岡の山本徳次郎(やまもととくじろう)が、昔から伝わる踊りを冠笠から長柄の傘に替え、剣舞の型を取り入れた踊りを考案したのが現在の傘踊りだという。

因幡の傘踊り(いなばのかさおどり) : 鳥取伝統芸能アーカイブス

 

ただ、長柄の傘にしたのは近代以降であり、最初は「笠」であることは注目すべき点でしょう。

 

他にも、「広く各地に分布する」こととして、高谷は、「蓑笠等の雨具を用意する慣行」の習俗を挙げています。

 

山形県東村山郡山辺町の雨乞山王社への祈雨には、この社の神輿を担ぐが、寺まで練る間に必ず降るというので参加者は蓑笠を着て出ることになっていた。

『雨乞習俗の研究』P109-110

 

愛知県北設楽郡稲武町でも雨乞には蓑笠姿で集る

前掲 P110

 

中には「雨傘」を使用する場合もあったようですが*5、やはり、当時の雨具の主体と言ったら「笠」になるのではないか、と思います。

 

つまり、番傘のような「雨傘」を、近世までの農民が雨乞いと結びつけるということが、少々不自然に感じるということです。

 

史料から考える

とはいえ、実際に「放射状に傷つけられた硬貨」は存在するわけです。

 

実際の発掘現場でも見つかっています。例えば、群馬県の牛沢では、大量の古銭が出土された際に、「放射状に傷つけられた硬貨」である加工銭もあわせて出土しています。

 

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『上大屋南部遺跡群「上大屋下組遺跡・上大屋中組遺跡・上大屋天王山遺跡」』P98

こちらを記述した山下歳信は、「牛沢出土の古銭について」(太田市史 通史編 中世 1997)の中で、加工銭の分類として6種類挙げており*6、その中に「雨乞銭」の項を作っています。

 

雨乞い銭(大鎌 1978)と称されるもので、中央から輪に向かって放射状に溝を刻みを施す。雨乞いの神事に際して神仏に供されたものとされ、この風習は古くから各地にあったとされる。

前掲 P78

 

ただ、この出典は「大鎌」とある通り、私も冒頭に挙げた『古銭語事典』をそのまま引用しており、学問的に確立されたものではありません。山下自身も、「今後は、民俗事例や宗教事例の照合により、明確な意図が解明されよう」と、慎重な書き方をしています。

 

また、気になるのは、牛沢で出土した硬貨は「開元通宝」「熈寧元寶」*7であり、これは中国からの渡来銭です。そしてこれは7世紀とか11世紀の発行と言われ、ちょっと古すぎます。牛沢出土銭は16世紀頃のものとされているので*8、その頃に刻まれたものだとしても、うーん、前項で論じた通り、その当時に、「雨乞い」と「雨傘」が結びついたというのは苦しいと思います。

 

史料自体に「雨乞銭」という記述があるものもあります。

 

松下孜(2011)は、知多地方の雨乞い研究の史料として、松原村(知多市新舞子)の古文書を例示しています。

 

雨請銭割符覚

高七百石 三百五十六文 岡田村

同八百石 三百九十四文 森村

(以下略)

近世知多地方における雨乞い行事」P97

 

実は冒頭に挙げたニコニコ大百科でも指摘されているのですが、これは文章の内容から、「雨乞い」にかかった費用を、村ごとに折半した(もしくは徴収した)覚書だと考えるのが妥当で、その意味での「雨乞銭」と考えられます。

 

日本の「雨乞い」は共同体として行われており、農民にとってそれは「自然な過程」だったようです。費用もばかにならず、

 

これは明治六年のものであるが、山口県大津郡阿川村で総村民費の三分の一は雨乞・虫送りに費やされているという

『雨乞習俗の研究』p52

 

と高谷は述べており、一つの行事として村々から賄っていたのは間違いないでしょう。新聞検索でも「雨乞銭」は引っかからないのですが、雨乞いの費用として「雨乞入費」と称して村内から百円集めた、という記事はありました*9。そういった類のものを「雨乞銭」という名称で呼んだ経緯はあるかもしれません。ただそれは、奉納するようなものではなさそうです。

 

他にも、国会図書館のデジタルで、近世や明治あたりからの古銭買付の本をいくつか覗いた*10のですが、「雨乞銭」及び、それと似たような形状の古銭が載っていることはありませんでした。

 

今日のまとめ

今日はまとめというか、上記を踏まえた上での推論を書くのですが、以下の通りとなります。

 

☆「放射状に傷つけられた硬貨」は古くから存在するが、それを「雨乞い」と結びつける民俗学的、歴史的事実はない(少なくとも全国で見られるものではない)。

理由①民俗学的な「雨乞い」の研究に、「雨乞銭」の記述が一切存在しない。

理由②「雨傘」が都市部で一般化する江戸時代より前に、そのような硬貨の存在が見受けられる。

理由③「雨乞い」の主体者である農村部で、「笠」ではなく「雨傘」を使用する神事は(多少)不自然である。

 

以上のことから、「雨乞銭」自体の見解は、古銭学界(業界)だけに伝わる都市伝説のようなものではないか、というのが私の推論です。例えば、古銭取引の中で、そのような傷をつけられた硬貨が表に出た際、誰かがまことしやかに「これは番傘に見立てて…」などと説明して価値を高めようとした結果、その噂がだんだん定着していってしまった、なんて流れを考えることもできます。冒頭のお寺さんのツイートに対して、「寺のくせに雨乞銭も知らないのか」みたいなコメントも見かけましたが、そんなに賢しらに言うほど、真偽のほどは定かではないのではないでしょうか。

 

雨乞習俗は、高谷も書いていますが、現代から見ると結構不可解で、「それがどうして雨乞いとつながるのか」が、よくわからないなんてパターンも数多くあります*11。そう考えると、この「雨傘に見立てる」という習俗は、あまりにもストレートというか、わかりやすすぎるきらいがあります。これも、私が疑り深くなっている理由のひとつです。

 

とはいっても、今回はなかなか資料集めに苦労して、少々力及ばずな感が否めません。もちろん私も資料を読み落としたりすることは多々ありますので、何かご存じの方(特に研究している方)から情報があれば、ぜひ共有したいところです*12

 

*1:

以上、高谷(1982)P128-140

*2:

「〈ふるさと東京〉民俗歳事記」(朝文社・2006)

「幕末農民生活誌」(同成社・2000)

「雨乞儀礼の成立と展開」’(岩田書院・2002)

「民俗学事典」(丸善出版・2014)

*3:

一方、雨具としての傘は、絵巻物、たとえば鎌倉時代の『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』あるいは『法然(ほうねん)上人絵伝』などによるとイグサを使ったろくろ式の開閉装置のあるものがみられる。

傘とは - コトバンク

 

*4:

それが江戸へ運ばれてだいたい元禄(げんろく)年間(1688~1704)から町民の傘となり、正徳(しょうとく)年間(1711~1716)には江戸でもつくられて番傘といった。

傘とは - コトバンク

*5:

宮崎市付近の農村では太鼓打ちが行われるが(中略)、この時男は蓑を着け、女は雨傘を小脇に挟んでその行列に参加する。

前掲 P110

 

*6:

これは上記の上大屋遺跡群の中の資料の孫引きですので、引用元を確認次第追記します

*7:

開元通宝 - Wikipedia

貨幣展示室 タイコイン 120.北宋の熈寧重寶と元寶

*8:

石川県埋蔵文化情報 P44

https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2018/03/jouhou_05.pdf

*9:

朝日1883年8月9日 大阪 P2

この話、人身御供を差し出すという雨乞い法で、それに選ばれた女性がいるんですが、この百円はその支度に使うための費用だったんだそうです。ところが、役人が、今時そんな野蛮なことはやめろといって、結局その雨乞いはなくなるんですが、百円もらった女性が「どうしてもらった金を返さなきゃならない」とごねて、裁判になるかもしれない、みたいな、ちょっと面白い記事でした。

*10:

古錢價附 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1805)

和漢古銭鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1893)

古銭価格図鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1909)

大正古銭価格図鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1914)

古銭価額年鑒 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1916)

大正古銭価格図鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション(1924)

*11:

例えば、「百枡洗い」という雨乞習俗があるのですが、これは、家々が枡を持ち寄って洗う、というパターンが多いのですが、高谷はこの習俗を「数多くの雨乞法の中で最も奇妙な、解説にてこずるもの」(P453)としています。

*12:

あと少しアプローチできることがあるとすると、

①中国など他のアジア圏の文化で似たようなものがないか

②「貨幣を奉納する」という歴史的変遷

があるかと思います。②なんかは、そもそもお賽銭の歴史が結構浅めかなと思うので、そう言ったところから、この「雨乞銭」を否定できるアプローチができるかもしれません。お暇な方は調べてみてください。