もう2017年も終わりです。みなさまはどんな年でしたか?
私のブログ記事は265本を数えました。書評や過去の迷走している記事も含んでいるのですが、なんとか週に1回ぐらいのペースで更新ができています。回を追うごとにだんだん参考資料が多くなり、字数も増加の一途と言うのは、正確さと言う意味ではいいのでしょうが、ペース的にそろそろ息切れする頃です。
素人が個人的に運営しているブログですが、この1年でも調べている途中でお蔵入りになっている記事がいくつもあります。だいたいは「おもしろくない」という理由ですが、他の記事を調べていたら更新する暇がなくなって、旬を過ぎてしまった、というものもあります。今日は、その中から年末の大掃除も兼ねて、
①「至りませず」は誤用なのか?(九州の高校の謝罪文問題)
②影が男女のカップルに見える木の写真はフェイクか?
③「逃げるは恥だが役に立つ」は本当にハンガリーのことわざか?
の3本でおおくりいたしまーす。
「至りませず」は誤用なのか?(九州の高校の謝罪文問題)
もう誰も覚えていないと思うんですが、九州の高校で教師が暴行を受け、それが動画としてアップされた事件、あの謝罪文についての記事です。
当時、この謝罪文がある高校の過去の謝罪文とよく似ていて、「パクリ」ではないかという疑惑が出ました。J-CASTニュースがその件について記事を書いているのですが、私が気になったのは以下の部分。
そのほか、ほとんど一般には見ることのない「至りませず」という言葉が、どちらの文書にも共通して登場する点を疑問視する向きもある。
実際、1億本を超える記事情報をまとめている新聞記事データベース「日経テレコン」で、2000年以降の記事を「至りませず」というワードで検索すると、ヒットしたのはわずか1件。しかもこの1件は、浦和学院の謝罪文を引用したスポーツ報知の15年12月1日付け記事だった。
全文表示 | 暴行動画・博多高校に「謝罪文パクリ疑惑」 ほとんど「死語」の表現まで一致も、学校側は否定 : J-CASTニュース
J-CASTはタイトルに「死語」という表現まで用いて、記事全体は「パクリ」というニュアンスで伝えていますが、私はここがとても引っかかりました。
口語ではよく使われている
なるほど、文語表現としては「至らず」が一般的であり、「至りませず」は、少なくともネット上では使われていないといってもいいかもしれません。
しかし、口語ではまあまあ使われているかもしれません。特に国会。一番古いのは昭和22年。
すなわち國内的には、昨年度米並びに甘藷の供出は、前内閣以來あらゆる手段と方法を講じ、農民諸君もまた絶大なる努力を拂われ、これが確保に、当つたのでありまするが、遺憾ながら所期の一一〇%供出は未だ完了するに至りませず、六月三十日、昨日までの成績は、一〇四%弱でありまして約百五十万石の供出未了となつておるのであります。
しかしながら事變に入りまするや、あらゆる惡條件に阻まれましてこの計畫の竣工を見るに至りませず、今日に及んでいるような實情でございます。
謝罪文にあるような「名詞+が+至りませず」ということであれば、昭和39年にすでにあります。
もちろん、私どもの捜査の目が至りませず外国から持ち込まれる麻薬と、これ以外の外人による犯罪もあろうかと思いますが、こういう点は今後協力して絶滅していきたいと考えております。
平成に入ってからもいくつかあります。
その中で、この配置指針の問題につきまして、あり方検討会でも労働者の非常に厳しい状況についての御議論もありましたが、配置指針自体の見直しには至りませず、過労事故防止マニュアルの作成など、今の指針をとにかく守るということに専念をして、この指針の見直しがまだ行われていなかったということにつきまして、スピード感に欠けたということについては大変反省してございます
衆議院会議録情報 第180回国会 国土交通委員会 第7号(平成24年5月18日)
また、教員としてふさわしくない非違行為を行ったりあるいは法令や職務上の義務に違反いたしまして、それぞれの任命権者であります都道府県あるいは市町村の教育委員会等によりましていわゆる地方公務員法の規定に基づきまして懲戒処分を受けた職員は、平成八年度で六百三十五人という報告を受けてございますが、このほかに、懲戒処分まで至りませず訓告等の注意を受けた職員が千八百九十三人という状況でございます。
参議院会議録情報 第142回国会 文教・科学委員会 第8号(平成10年3月12日)
会議などでは「至らず」というときに、丁寧な表現を使いたくて使用する、というのがもう70年ぐらい前からある、というわけです。
そもそも文法的に誤りか
「至りませず」と似たような文法の型で、誤用と言う疑問を抱かれているものに「関わりませず」というものがあります。
こっちの方がメジャーな議論になっているようで、指摘している書籍もありました。
「お足元の悪いにもかかわりませず」× (「お足元の悪いにもかかわらず」「本日は雨天にもかかわらず」が正しい)
ことばのセンス(PHP研究所)
どちらもラ行五段活用に丁寧語の「ます」が否定形になった形で、慣用表現に近いものを無理やり丁寧な形に直すことが果たして正しいのか、というところです。
これについては、言語学者の飯間浩明先生の答えがワタクシ的には腑に落ちました。
飯間先生によれば、NHK放送文化研究所編『NHK ことばのハンドブック 第2版』では、「かかわりませんで」を誤用としています。
「あいにくの雨にもかかわりませんで」という表現はおかしい。「~にもかかわらず」は,一種の慣用句であるから,「雨にもかかわらず」とするか,「雨でしたが」などとする。
「続いて」「したがって」を「続きまして」「したがいまして」と言うのも同様におかしい。
ただし、飯間先生はこれを慣用句だから誤用というわけではなく、「叙述の途中に使われることばだから」として、以下のように説明しています。
「です」「ます」を使いにくい場合というのは、たしかにあります。たとえば、叙述(ひとまとまりの出来事を述べること)の途中にはあまり使いません。「電車の中で立って本を読んでいた」をていねい体に直すと、「電車の中で立って本を読んでいました」と、最後はていねい形になりますが、一方、前の部分は「電車の中で立ちまして本を読んでいました」のようには言いにくい感じです。もし言うと、それは「電車の中で立ち上がるという動作をした、そして、本を読んでいた」と、2つのことを叙述しているように受け取られます。
なので、飯間先生はこの使用法を誤用とはしていません。
日本語には「ふつう体」と「ていねい体」という2つの文体があり、それぞれの文体によって、使われる「慣用句」は違うのです。「続いて」は、ふつう体での慣用句ではありますが、ていねい体では「続いて」と「続きまして」の2つの慣用句を使うということです。
『三省堂国語辞典』にも、「つづい て[続いて](接)〔略〕〔「続きまして」は、ていねいな言い方〕」とあるそうで、飯間先生は、「かかわりませず」という言い方は、ばかていねいではあるが、不自然ではないとしています。
ほぼ全く同じ形の「至りませず」も、私は同様の現象と考えます。J-CASTが、この言葉ひとつでもって「死語」とくくり、あたかもそれでもって、謝罪文が「剽窃」だというのは、印象操作にもほどがあります。
②影が男女のカップルに見える木の写真はフェイクか?
次に、はるか昔にツイッターをにぎわせた以下の画像。
木の影が恋人同士に見えますね!このやろう!という感じで賑わっていました。
この写真の出所はどこかなあということで、手がかりになるのは室外機のロゴです。もう少し鮮明な画像で拡大してみると、「格力(グーリー)」という中国のメーカーのものであることがわかります。
ということは、この写真は中国で撮られたものである、という推測ができます。
ということで、探してみると、Weiboの投稿が引っかかります。2013年10月20日。
猫酥酥酥という人が投稿した画像のようですが、残念ながら既にアカウントはないようで、この画像がフェイクなのかどうか、どういう経緯で出されたものなのか、というところはわかりません。
向こうでもよくわからなかったようで、翌日の10月21日には、Q&Aサイトで質問がたっています。解決されていませんが。
树的影子有可能显示出人形吗? | 问答 | 问答 | 果壳网 科技有意思
実際のところはどうなのかは推測するしかもはやありませんが、恐らくこの画像は加工されたものでしょう。よく見ると、影と水溜りが混同されています。
赤丸で囲んだところは、恐らく室外機の水滴がたまった部分でしょう。段差の下まで流れているあとが見えます。しかし、男女の影は、まるでそこからのびているように続いています。段差の部分には他に影がないにも関わらず。
もしこれが本当なら、こんな感じで光源がないと変でしょう。
というわけなので、限りなくフェイクに近い画像だと思っておけばいいでしょう。
「逃げるは恥だが役に立つ」は本当にハンガリーのことわざか?
ガッキーのかわいい『逃げるは恥だが役に立つ』は、ハンガリーのことわざというウワサでしたので、調べてみました。
Magyar közmondások, szólások
"Szégyen a futás, de hasznos." Magyarázat: Nem valami előnyös, hősies dolog megfutamodni, néha mégis ez a legokosabb, amit az ember tehet.ハンガリーのことわざ、言葉
「逃げるは恥だが役に立つ」解説:英雄的な行動をするために逃げることはよくはないが、時には賢い選択である。
http://www.patriotaeuropa.hu/kategoria/a-magyar-konyha-inyencsegei/301.html
というように、ハンガリー語のブログに書かれていたりします。
いつの出版かよくわかりませんが、ハンガリーの格言集みたいな本にも章立てがあります。P149にあるみたいです。
ではどこまで遡れるかというのが気になるところです。
2001年の「BARANYAI DECSI CSIMOR JÁNOS EMLÉKEZETE(BARANYAI DECSI CSIMOR JÁNOSの思い出)」という本によれば、
BARANYAI DECSI CSIMOR JÁNOS EMLÉKEZETE
この格言が拾われた最古の例は、DECSIという16世紀のハンガリーの作家だということ。彼はハンガリー語のことわざ集をつくったことで有名だそうです*1。
このDECSIの原版が残っているのかはちょっとよくわからなかったのですが、Szenci Molnár Albertの同時代の人はDECSIの資料を採用し、その版が現代まで残っているようです。で、版によっては、この「逃げるは~」のテキストの相違がいくつかあるようです。Például Decsinél版は「 "Szemérem az futás, de haznos"(l.8.3.4.)」と記載しているが、Albert版は「"Szégyen a futás, de hasznos" (SzM-2.257/1., SzM-3.290/2., SzM-4.290/2)」というように。ハンガリー語はよくわからんので、これがただの写し間違いなのか、意味まで変わってしまうのかはよくわかりません。
前述の本によれば、1589年にはこの諺の用例があるようなので、かなり古くから使われているものですね*2。とはいっても、当時はラテン語とハンガリー語の両方があったようで、ハンガリー固有のもの、と言う感じではないかもしれませんが。
今年は「ファクトチェック」や「フェイクニュース」という言葉が流行り、それにおされる感じで、当ブログもいろいろな方面の読者の方に読まれるようになったのは、書いているものとしては嬉しいことです。
しかし私がいつも調べていて思うのは、いったい「フェイク」とはなにか、「ファクト」とは何かということです。誰かが誤った情報を発信する、Twitterなり、ブログなり、メディアなり。しかし、故意にウソを流そうとする人間でなければ、発信者にとってそれは「ファクト」なわけです。「ファクト」が「フェイク」に変わるのは、それが人口に膾炙し、広まっていった時です。広まらなければ、「フェイクニュース」になることはありません。それは道端で見向きもされないただの小石です。
私は、「ファクトチェック」とは、情報の発信元を断罪することではないと思います。人間は完全に合理的な存在にはなれませんから、自分の「ファクト」がいつか「フェイク」に変わる可能性はいつも残されているからです。それはもちろん私も同じです。小石は道端にあれば見向きもされませんが、池に投げ込めば波紋を呼びます。我々は小石が投げ込まれた池の水に騒ぎ飛び立つ水鳥にはならず、その中で静かに泳ぐ魚になりたいものです。それでは皆様、よいお年を。