ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

「日高の遺書」のはじまりを探す、あなたの人生は物語

日高の遺書をご存じでしょうか。全て引用すると長くなるので、遺書についている但し書きのようなものを掲載します。

 

昭和四十五年六月、北海道日高管内某町の国道で、三十八歳の会社員が酒酔い運転で追越しをかけ、対向車と正面衝突し相方も死亡した。

この酒酔い運転の家族は、妻(三十二歳)と五歳及び三歳になる二人のこどもがおり、それまで明るい平和な生活を送っていたが、この事故により一瞬にして幸せな生活が崩れ去り、前途を悲嘆した妻は警察署長宛に遺書を残し、可愛い二人の子供を道連れに自殺した。

自然大好き・島原 日高の遺書 より*1

 

「遺書」には、被害者にお金を払えないため、加害者の妻が子供を道連れに心中をする、という内容が書かれています。


ところが、この遺書、内容があまりに悲惨であるが故にか、その真偽について疑うむきも多いです。Googleでも日高の遺書、といれると「フィクション」というサジェストが出る始末です。

しかし残念ながらネット上でこの遺書の真偽をまともにとりあつかったものはありません*2。ならば今回、私がその嚆矢になろうとしたわけです。

先に言っておくと、「日高の遺書はデマでした/本当でした」とはなりません。結論としては、矛盾点があるものの、創作だとは言い切れない、という感じです。しかしまあ、それなりの推論までは書けたので、ひとつご笑覧いただければ幸いです。

 

【目次】

 

 

アプローチの方法(新聞編)


今回はどう頑張ってもネット上だけでは完結しません。そのため、書籍なり人に話を聞くなりして調べていく地道な作業があるのは想像にかたくありません。

まずはネットで調べてざっとわかる事実(と思われているもの)についてまとめます

  

○1970年6月に北海道日高管内の国道で起きた事故*3

○酒酔い運転の衝突事故で両運転手(加害者は38歳)が死亡

○のこされた家族構成は母親(32歳)、子ども二人(5歳、3歳)。

 

ということは、上記の事実を次の方法で確かめればよいわけです。

 

・1970年6月の新聞を確かめ、似たような自動車事故がないか調べる

・1970年前後に似たような母子心中事件がないか調べる

 

当時の日高管内について

1970年代の日高管内とはそもそもどこを指すかというと、以下の範囲になります。

 

f:id:ibenzo:20190817224210j:plain

統計要覧 日高の姿(1972年11月) P6

 

「日高管内」は1970年代は、日高町・平取町・門別町・新冠町・静内町・三石町・浦河町・様似町・えりも町を指していました。なので、S町はこの中の静内町もしくは様似町のどちらかになるでしょう。この二つの町ならば、日高管内の国道は235号線であった事故、ということになるでしょうか。

1970年、日高管内の自動車保有数は18099台*4。日高管内の事故死亡者数については43人発生しており*5、飲酒運転の事故については、1971年の資料になりますが、25件あったという記録が残っています*6。ちなみに1970年の事故件数は509件、うち6月の件数は29件となっています*7そこら辺を踏まえて記事を調べていきましょう

 


該当事故は記事上は存在しない

 

朝日・毎日・読売のそれぞれの過去記事検索を使い、「事故」「北海道」などのキーワードで調べます。

まず1970年6月の紙上には同様の事故は見当たらず、前後3年ほど範囲を広げて見てみましたが、自動車事故は引っかかるものの、同様の事故ケースは見当たりません。でもまあ、検索で引っかかるなら誰かが見つけてると思うので、ここら辺は想定内です。

地方の事故は大手紙上には載らない可能性もあります。ならば今度は北海道新聞を調べてみることにします。

北海道新聞は、大手紙のような記事検索システムは80年代以降しかありませんが、それ以前の縮刷版はCDの形式で存在するので、そちらで確認します。

 

パソコンで読む北海道新聞. the Hokkaido Shimbun DVD 全道版 [複製版]

 

ただ、見出しも本文もテキスト検索はできないので、地道に一日ずつ確認するしかありません。膨大な作業になるため、範囲を1970年の6月にしぼって確認します*8

残念ながら同じ事故は記事上には出てきません。細部が変わっている可能性も考慮して、「自動車同士の死亡事故」もしくは「飲酒運転の事故」で絞って確認しても、以下の通りです*9

 

 

事故日付 事故概要 事故の程度 飲酒の有無 事故場所 加害者の年齢 ソース
1970/6/6 農作業の帰りに乗用車同士が衝突 2人死亡、4人けが × 十勝管内 国道交差点 37歳 1970年6月7日 P15
1970/6/14 乗用車と大型トラックが衝突 2人死亡 × 十勝管内 国道 23歳 1970年6月15日 P15
1970/6/14 飲酒運転による無理な追い越しで乗用車同士の衝突 1人重体、7人重軽傷 空知管内 道道 38歳 1970年6月15日 P15
1970/6/15 ボーナスもらい急いで帰る途中にトラックと乗用車正面衝突 3人死亡、1人重体 × 札幌市 52歳 1970年6月15日 P15 夕刊
1970/6/15 湖に転落 一家6人のうち4人が死亡 4人死亡 夕張市 30歳 1970年6月16日 P15
1970/6/20 酒酔い運転で軽乗用車が乗用車に追突 1人けが 札幌市 39歳 1970年6月21日 P15
1970/6/20 酒酔い・無免許で追突事故 6人けが 札幌市 38歳 1970年6月21日 P15
1970/6/27 スピードの出しすぎによるトラックと乗用車の衝突 2人重軽傷 × 胆振管内 20歳 1970年6月28日 P15
1970/6/28 無理な追い越しで正面衝突 1人死亡、1人重体、1人けが × 小樽市 道道 23歳、59歳 1970年6月29日 P15
1970/6/30 前方不注意による衝突事故 死亡 × 後志管内 国道 19歳 1970年7月1日 P15
1970/6/30 駐車中の大型トラックに乗用車が追突 死亡 渡島管内 国道 27歳 1970年7月1日 P15

 

まず、日高管内の事故がありません。場所を無視して、一番「日高の遺書」に適合するのは、加害者が「38歳」で「飲酒運転」をしていた1970年6月14日と20日の空知管内、札幌市のものですが、こちらは死亡事故ではありません*10

 

 

北海道といっても広いので、もっと地域を限定する必要があるのかもしれません。北海道新聞は同じようにCDの形で、地方版のデータベースも残しています。

 

パソコンで読む北海道新聞 本社地方版. 石狩、後志、空知、胆振、日高 [複製版]

 

こちらの日高版について、同じように1970年6月を調べてみたのですが、今度は1件も引っかかりません。他の空知版や室蘭版には事故が載っているのですが、単独事故以外を除いても、以下のものしかありません*11

 

事故日付 事故概要 事故の程度 飲酒の有無 事故場所 加害者の年齢 ソース
1970/6/7 高さ100mの断崖らダイブして死亡 死亡(人数不明) × 地球岬 不明 1970年6月9日 室蘭版
1970/6/8 崖から落ち立木にぶつかる 4人重軽傷 × 地球岬 不明 1970年6月9日 室蘭版
1970/6/10 営業車と乗用車が正面衝突 2人けが × 稲穂5の国道 不明 1970年6月10日 小樽市内版
1970/6/9 バイク同士が衝突 1人が瀕死の重傷 × 南美唄町 不明 1970年6月11日 南空知版
1970/6/9 無免許、酔っ払い運転の乗用車が自転車の高校生をはねる 1人重傷 春別4丁目 27歳 1970年6月25日 南空知版
1970/6/14 無理な追い越しで死亡 死亡(人数不明) × 栗山署管内 不明 1970年6月26日 南空知版
1979/6/22 居眠り運転で対向車とぶつかる 死亡(人数不明) × 栗山署管内 不明 1970年6月26日 南空知版
1970/6/26 バスに乗ろうとした婦人がダンプにはねられ死亡 1人死亡 × 上砂川線の道道 不明 1970年6月28日 中空知版
1970/6/26 自衛隊のジープと乗用車の衝突 3人重軽傷 × 不明 不明 1970年6月28日 中空知版
1970/6/28 乗用車同士の正面衝突 1人死亡、2人重軽傷 × 張碓町 不明 1970年6月30日 小樽市内版

 

 

やはりぴったりくる事故は見当たりません。もっと範囲を広げればよいのかもしれませんが、そのためにはかなりの時間を費やさねばならず、自宅にデータがほしくなるところです。CDは1枚3万円以上かかるので、調査資金が必要です。


本当に1970年6月なのか

道内において、1970年の交通状況はどうだったかというと、増える交通量に対して、道路状況が粗悪だったり、ドライバーのマナーがなってない、という記事が目立ちます*12


そんな中で交通安全委員会もいろいろな対策に乗り出しているなんて記事もあるんですが、その中で、日高管内の1970年6月の事故件数を出しているものがありました。

 

日高地区交通安全道民推進委員会は13日、管内の6月中の交通事故発生状況をまとめた。それによると、6月の事故発生は29件(昨年同日31件)、負傷者40人(同55人)、死者2人(同1人)(以下略)

北海道新聞 日高版 1970年7月15日

 

日高管内では「29件」の事故が起きているということですが、全然紙上に表れないので、やはり新聞でチェックする方法には限界があることがわかります。


注目すべきは死亡事故で、「2名」と出ています。おお、「日高の遺書」を信じるなら、衝突事故でどちらの車の運転手も死亡しているので、この死亡数には矛盾はありません。

しかし、実はこの死亡者2名の事故の場所は1か所ではなく、門別町と浦河町の2か所であることが記事内で示されています。「2件」ではなく、「2名」というところがミソで、「日高の遺書」の事故は同時に2名が死亡したことが書かれていますので、同じ町内でなければなりません。しかし、記事によれば、日高管内の事故は1名ずつ、別々の町で起こった事故だと読みとれるので、結果として、日高の遺書の前文とこの事故状況は矛盾します。なので、もし日高管内で起きた事故、という前提が正しければ、この1970年6月という日付は誤りということになります*13


心中は行われたか

次に、母親、子二人という心中が行われたかどうかです。

こちらも、朝日、読売、毎日の記事検索から調べます。前述しているように、日付は怪しいので、1970年から1973年まで幅を取って記事をピックアップします*14

ぴったりのものは案の定見つからないので、条件をゆるめて調べます。夫が死亡していることが「日高の遺書」の根幹なので、心中時に母子家庭であったものを取り上げます。ただ、飲酒運転及び交通事故関連の心中については特別取り上げました。

結果は以下の通りです。

 

新聞日付 心中理由 構成 場所 ソース
1971/1/8 飲酒運転で73歳の男の自転車と衝突したため 会社員25歳、母63歳 静岡 読売 P9
1972/1/23 夫(31)の末弟が事故を起こし示談金でもめてノイローゼになった 母26歳、子3歳6か月、子5か月 東京 読売*15
1972/2/21 不明 母25歳から30歳、子8か月(身元不明) 東京 読売 
1972/4/25 体が思わしくなかったため 母38歳、長男13歳 東京 読売 
1972/10/2 以前に事故を起こしたがまた事故を起こし、示談がこじれてノイローゼ 父27歳、母26歳、子2歳 愛知 読売 
1972/10/30 夫が昨年9月に死亡し、引っ越したアパートになじめず 母36歳、長男7歳、長女3歳 東京 読売 
1972/12/15 鳶職の夫がS45年6月に作業事故で死亡、商品相場で手を出して大損 母30歳、長男6歳、次男2歳 川崎 読売 

 

 

飲酒運転関係の心中は1971年1月8日のものがありますが、状況があまりに違います。1972年12月15日のものは、夫の死亡の日付は合っていますが、そのほかが違いすぎます。

 

また、これも北海道新聞の全道版及び日高版で、1970年5-7月の間を読みましたが、そもそも心中事件が記事としてありませんでした。ただ、ここら辺は範囲が狭いことは否めません。

 

無論、地方版含めの全国紙といえど、すべての心中事件を取り上げてるとも思えません。昭和30年代の親子心中が200件前後/年としている調査もあり*16、新聞からのアプローチはなかなか難しいところです。

ただ、この頃の記事を読むと、まあ氏名はばっちり、自殺方法も原因も遺族の名前も何もかも書くような時代なので、「日高の遺書」のようなセンセーショナルな心中事件が起こったら書きそうなもんでしょうが…

 

アプローチの方法(奥尻編)

新聞から探るのは時間的にも資金的にもここで行き詰まります。次にアプローチできそうな方法が実はネット上で見つかります。

 

冒頭、「日高の遺書」の但し書きを載せたブログに、郡山北警察署が発行したとおぼしき、「日高の遺書」の成り立ちを説明する画像が載っています。この説明書きがかなり重要です。

元青森県警察本部長桝谷広氏が北海道警察本部長として奥尻島を巡視したとき、たまたまこの「遺書」を見て感動し、運転者の戒めとして執筆された随想からこの遺書を抜粋したものであり、桝谷氏の随想の最初に、
~先月奥尻島の駐在所を訪ねた際、同島の南部の青苗町の研修所に立ち寄った。そこの玄関に大きく「遺書」と題された張り紙があったので思わず立ち止まって読んだ~
と書かれてある。


この画像に日付はないのでいつのものかは不明ですが、「日高の遺書」の本文が掲載された文書は1978年8月1日の秋田県五城目の広報でも引用されており*17、遅くともその頃までには、桝谷氏が書き写したという「遺書」が広まっていたことがわかります。また、この説明の文書のキャプションには「新潟県警察本部発行 日高の遺書より」の記載があります。この「奥尻島」の説明がついているものは、少なくともネット上ではこのブログだけです。この画像を信じるなら、「日高の遺書」の広まった始まりは、新潟県警からではないか、と考えられそうです。

 

さて、上記の引用からは、新潟県警が、北海道警察本部長だった桝谷広の「随想」から抜粋したと記述されています。また桝谷は奥尻島に視察した際、青苗の「研修所」で見たという重要な証言が残っています。ということは、ここから次のアプローチがとれます。

 

・桝谷広の随想を探す(1978年以前)

・奥尻を桝谷が訪れた年を調べ、当時の記録を見つける

 

では、確認してみましょう。


桝谷広について

桝谷広は元北海道警察本部長で、札幌冬季オリンピックの際も活躍されたそうですが、残念ながら2002年にご逝去されています*18

経歴は以下の通りで、北海道警察本部長だったのは、1970年10月から1973年6月にかけてです*19

 

1954年~58年 警察大学校教授

1962年 青森県警察本部長

1965年 神奈川県警察本部警務部長

1967年 関東管区警察学校長

1970年 北海道警察本部長

1973年 退官。

『愛はみちびく』(中央出版社)1977 著者略歴より作成

 

桝谷は警察関係の著作もそうですが、洗礼を受けており、キリスト教関係の文章も数多く書いています。当時の北海道警察本部長に就任した際の新聞でも、そのことが触れられています。

 

それもそのはずで、警察畑では珍しい敬虔なクリスチャン。「高校時代(略)の友人に信徒がいて、その影響で十八年にプロテスタントに入信したんですが、戦後になってカトリックに改宗しました(後略)

北海道新聞全道版 1970年10月28日 P3

 

とりあえず国会図書館に存在する桝谷広名義の本をすべて読んだのですが、残念ながら「日高の遺書」のくだりはどこにも出てきませんでした。

特に、『愛はみちびく』が、年代的にも内容的にも一番合ってそうな本ではあったのですが*20、北海道警察時代の話は出てくるものの、やはり遺書関係の話は出てきません。なので、新潟県警の書く「随想」というものは、正式な出版物ではなく、警察内部、もしくは地域限定的な広報のようなものなのかもしれません。


奥尻島の記録を調べる

次に、桝谷が北海道警察本部長時代に訪れたという奥尻島の「研修所」に関して調べてみましょう。

この青苗町にある「研修所」は、時期的に見ても「奥尻町総合研修センター」のことと思われます。「新奥尻町史下巻」によれば*21、1969年11月25日に落成されたとのこと。

 

当時の外観はこんな感じです。

 

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島百景 _ 写真でたどる奥尻町史 _ 奥尻町町制施行五十周年記念誌 2017 P85

 

桝谷は「遺書」が貼ってあった先を「玄関」と書いているので、赤く囲んだところに貼られていたのでしょう。桝谷が道本部長時代の1970-1973の間には少なくとも飾られていた、ということになります。

 

ところがここら辺の記録が全くありません。奥尻町はとてもありがたいことに初号からの広報をPDFでアップしてくれている*22のですが、一通り該当年近辺は読みましたが、研修センター落成の記事はあるものの*23、内部の様子ですとか、桝谷がいつ視察に訪れたかなど、そこらへんの知りたい記録が残っておりませんでした。

仕方がないので奥尻町役場にも問い合わせをしたところ、とても丁寧に対応をしてくださいました。が、結果としては、

 

・現在研修センターに「遺書」は掲示されていない
・当時の支所長などは既にご逝去されているか高齢のため連絡つかず

 

ということで、ここでも行き詰まってしまいます。


奥尻の当時の様子から仮説を立てる

日本の当時の様子

「やっぱりよくわかりませんでした!」では、どこぞのキュレーションサイトと変わらないので、調べた限りの資料を使い、なるべく確度の高い仮説を立てていきたいと思います。

 

まず前提として知らなければいけないのが、1970年代の飲酒運転を取り巻く状況です。

 

40年以上過ぎるとピンとこなくなるのですが、当時の日本において飲酒運転はかなりハードルの低いものでした。

下記の表は神奈川県の交通安全協会が1972年に行った、飲酒運転の意識に関する調査です。

 

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人と車9(4)(225)全日本交通安全協会1973年4月 P32-33

 

「主婦5人のうち2人までが「車で帰る客に酒をすすめたことがある」と披れき」(同 P32)するなど、飲酒して運転することは経験的にも意識的にもかなり甘い認識であることがわかります。

 

飲酒運転に限らず、あまたの交通事故は、当時かなりの社会問題になっており、「輪禍」という表現で連日新聞を賑わせておりました。交通事故の統計を見ても、1970年には71万件*24と、一度ピークを迎えています。死亡者に限って言えば、1970年は16765人と、全ての期間を通じて最多の数になっています*25

 

この社会問題はかなり深刻で、道路交通法もこの時期に改正されています。

 

昭和39年・同45年施行の改正により「酒酔い運転」の最高刑が重くなり、同45年の改正では「酒気帯び運転」が処罰対象になった

交通安全コラム - 有限会社 シグナル

 

そもそも1960年に制定された道路交通法では、酩酊状態の運転は禁止されていたものの、いわゆる酒気帯び運転は罰則がなく、適法の状態でした*26

 

1970年の道路交通法改正では、酒酔い運転の処罰が重くなり、かつ「呼気1リットル中のアルコール量0.25mg」以上の飲酒運転が「酒気帯び運転」として「3月以下の懲役または3万円以下の罰金」と、罰則が設けられました。


これはかなり重要な転換点だと思います。ここで日本は飲酒運転について厳しいメッセージを送ったのです。これが1970年の出来事です。

 

北海道の様子

日本がそんな状況の中、北海道や奥尻はどうだったのでしょうか。

 

日高管内にあった浦河町の、『新浦河町史 下巻』(2002)によれば、

 

昭和30年以降(中略)交通事故は増加の一途をたどり、北海道は四十五年から交通事故死全国一の汚名を着るようになった。町行政においても、昭和四十四年四月に「交通安全推進係」を設置した。

『新浦河町史 下巻』P148

 

と書いてあり、北海道の事故の苛烈さや、このころに交通安全運動が盛んになっていく様子が伺えます。

 

南空知版ですが、栗山署管内に「正面衝突の増加」があるという記事もあります*27。記事ではその理由を「国道234号線」や「道道札夕線」は、「完全舗装」され、「スピードが出やす」く、「安全設備が少ない」ためであろうとしています。このように、道路設備の整備なども、事故につながる原因だったと考えられていたようです。

 

飲酒運転についても、

 

昨年の道交法一部改正で、飲酒運転の罰則は従来よりぐんと厳しくなった(中略)マイカー族の場合はそれほど徹底していないのが現状(後略)

北海道新聞 日高版 1971年1月6日

 

と、一般市民に浸透していないことを、年末に起きた2件の飲酒運転による死亡事故を例に挙げながら嘆いています。

 

奥尻島の様子

では、奥尻島ではどうだったのでしょうか。

 

1973年の広報おくしり*28によれば、奥尻町の交通事故は「60日に1件」とのことなので、年6件程度です。事故などほとんどなさそうな気もします。

 

しかし、広報には奥尻で事故が増えてきていることが結構しつこく書かれています。

 

なかでも飲酒運転による事故が目立っています。(中略)運転する人の自覚が必要ですし酒を飲んだら絶対に車を運転しないという習慣をしっかり身につけましょう。

広報おくしり No.61(1969年9月)P5

 

近頃の交通事故は、お酒の影響によるものが多いところから、酒気帯び運転をはじめとし、道交法が改正されました。(中略)古からのしきたりを改め、お酒を飲んだら絶対に運転をしないようにして下さい。

広報おくしり No.72(1970年8月)P2

 

上記は「奥尻警察官派出所」名義で、「けいさつだより」というコーナーに書かれています。

 

また、当時の役場には、「ゆっくり走ろう北海道」の看板がかかっており、

 

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島百景 _ 写真でたどる奥尻町史 _ 奥尻町町制施行五十周年記念誌 P77

 

奥尻全体で交通事故防止に取り組んでいたことがわかります。

 

その中でも特に、飲酒運転については大きく扱われています。下記のような標語のようなものも、何号にも渡って広報にも掲載されています*29

 

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書き起こすと、

飲んで運転 無くする命

 どうして奥尻は交通事故(飲酒運転)が多くなったのだろう。

ドライバーの自覚がなによりも大切であることを、あらためてたしかめあおうではありませんか。

 車なんか無くなってしまえ…といわれる前に…

となります。この標語を作ったのはどうやら「奥尻町交通安全推進委員会」で、やはり町としては飲酒運転を一番の問題と考えていた節がうかがえます。

 

「日高の遺書」事故年創作仮説

上記をまとめると、当時の背景としては以下のようなものがあるでしょう。

 

・全国的に事故が増えてきており、特に北海道は死者数がワーストだった。

1970年に道交法が改正され飲酒運転が厳罰化された。

・管内によっては国道の舗装道路が増えたことでスピードの出しすぎによる正面衝突が増えたところもあった。

・奥尻でも飲酒運転が増加しており、町全体で啓発活動 をしていた。

 

ここでもう一度、「日高の遺書」の但し書きを読んでみましょう。

 

昭和四十五年六月、北海道日高管内某町の国道で、三十八歳の会社員が酒酔い運転で追越しをかけ、対向車と正面衝突し相方も死亡した。

 

つまり、この「日高の遺書」の事故は、当時起こっていた交通事故の、かなり典型的な例の一つであった、というわけです。なので、このような事故があったこと自体は、不自然だとは思いません。ちょっと典型的すぎる気もしますが。

 

ただ一つ、今回の件で間違いだと言えそうなのは、事故の起こった日付です。前述したとおり、1970年6月が同時に「2名」死亡した事故だとすると、当時の記録と矛盾してしまうからです。ではなぜ1970年を選んだのか。

 

やはりそれは、飲酒運転の厳罰化に舵を切った道交法改正の年だからではないでしょうか。奥尻町の行政がどのようにしてこの「遺書」を手に入れたかは、今となっては知る由もありません。ただ、「遺書」自体はいじらなくとも、そこにつけた但し書きは、ある程度手を加えられそうです*30。町としては飲酒運転にかなり危機感を抱いていたように感じられます。そうすると、より身近な地域に置き換えたり、事故の原因を変えたり、日付を付け加えたり…そんなことを考えると、私はこの1970年という年に、過剰に意味を見出してしまうのです。

 

今日のまとめ

①新聞紙上で「日高の遺書」と合致する事故は掲載されていない。

②日高管内の事故が正しいとすると、1970年6月の死亡事故は1名ずつ別々の町で起こった事故だという記録があり、2名が同時に死亡した「日高の遺書」の事故の日付は矛盾する。

③また、似たような心中事件も新聞紙上には掲載が確認できない。ただ、紙上に表れる心中事件は少なく判断ができない。

④「日高の遺書」の変遷は以下のように考えられる。

1.奥尻町総合研修センターに、1969年11月~1973年6月までの間に「遺書」という名目で掲示される。

2.それを北海道警察本部長の桝谷広自著の「随想」に書き写す。

3.その随想をもとに、新潟県警察本部が、「日高の遺書」という名前をつけて、啓発のような形で広めた。

⑤「日高の遺書」の事故は当時のあまりにも典型的な事故であるがゆえに、道交法が改正された1970年という年を事故日に設定したことが作為的に感じられる。

  

とまあ、今回はすっきりとは終わらない感じでしたが、現在調べられる限界はここらへんではないでしょうか。末尾に、これ以上調べてみたい人向けのアドバイスを置いておくので、やる気のある方はやってみてください。

 

 

今回の記事を読んで、みなさんはどう感じるのでしょうか。ひとつ誤解しないでもらいたいのが、私はこの「日高の遺書」を創作だと断じたいわけでも、疑義を伝えることによって、この家族たちを貶めたいわけでもないということです。

 

この話をまとめるには色々なアプローチがあると思います。例えば、ちょっと前にバズった、女子トイレでわいせつ行為を受けた女児が子宮全摘になった*31…みたいな話と絡めて、果たしてあやふやな情報でも注意喚起として流すべきなのかどうか、というアプローチとか。様々な情報が行きかう時代において、本記事のような事実の確認の仕方は、ひとつ指標にはなるとは思います。

 

でも私は、何年かこのブログを運営してきて、ずっと人の在り方みたいなものを考えてきました。例えばこの話は、桝谷が事実確認を怠って広めた、という風にもっていくこともできます。しかし、前述したように、カソリックである桝谷が、この母子の心中の遺書を読み、どのような感慨におそわれたかということのほうが私は気になります。デマは許されるべきものではないかもしれませんが、様々なものに物語を与え、物語を創り、享受したいという人の心までは否定したくないな、と思うのです。私は、「ファクトチェック」という横文字で何かを正したいわけではなく、逆に人々はどんなものを信じたいのかとか、思いの流れのようなものを解き明かす方に心を動かされます。ともすれば、この手の作業は趣味的なものに陥りやすいので、自戒をこめて、私が扱っているのは情報ではなく人だということは、忘れたくはないなと思います。

 

おまけ:これ以上調べてみたい人に

私はここで挫けたのですが、これ以上調べてみたい人向けに、いくつかアドバイスを記しておきます。夏休みの自由研究が終わってない人なんかどうぞ。

 

①桝谷広の「随想」を探す。

「桝谷広」名義では見つからなかったのですが、「運転者の戒めとして執筆された随想」とあるので、例えば「交通安全のしおり」みたいなものであれば、桝谷の名前が入らないかもしれません。そういった関係の本(70年から78年まで)を片っ端から探していけば見つかるかもしれません。

②北海道警察の昔の広報などを探す。

これが見つかると、桝谷がいつ奥尻島を巡視したとか、くだんの「随想」にたどりつけるかもしれません。ちなみに新潟県警には問い合わせたのですがお答えいただけませんでした。

③奥尻島の年長者を探す。

みなさんご高齢で難しいのですが、奥尻島に知り合いでもいれば、1970年当時研修センターを利用したり、職員だったりなんて人見つかったら、掲示されていた「遺書」のことがなにかわかるかもしれません。

④北海道新聞をくまなく読む。

今回はかなり範囲を絞りましたが、1970年6月という日付が怪しい以上、他の年代も探す必要があります。地道にコツコツ読んでいけば、該当の事故にたどりつけるかもしれません。

 

以上、がんばってみてください。

 

 

*1:

「日高の遺書」には細部が様々異なったものがあるのですが、この引用は一番原本に近いものです

*2:

なくもないのですが、きちんと出典をあたっていません。

*3:
S町もしくは某町として書かれています。おそらく「S町」の方が初出として近そうです。

*4:

統計要覧 日高の姿 P127

*5:

前掲 P200

*6:前掲 P201

*7:

前掲 P202

*8:

正確に書くと、1970年の5月・7月もチェックしたのですが、わざわざ詳細を書き留めはしませんでした。後述する地方版も同様です。

*9:

ソースはすべて北海道新聞の全道版です。特に記載がなければすべて朝刊です。「△」は、事故原因が調査中の場合です。

*10:正確に言うと、14日のものは加害者が意識不明の重体なので、記事の出た後に容態が変わった可能性はあります。ただ、被害者は骨折などの重傷なので、そこから亡くなるとはちょっと考えにくいです、20日は全員むち打ちなので、これも容態が変わるとは思えません。

*11:

年齢については、記事上に記載がなかったり、私が書き忘れたものも含みます。

*12:

例えば、1970年6月4日札幌近郊版では、「国道一二号線は年々交通量を増し」、その数は一日「ざっと3万台」としています。6月9日札幌近郊版では江別の小学校の通学路が車のラッシュで危険なことを伝えたり、6月9日室蘭版では、測量山の観光道路で無免許ドライバーが車を練習していて事故にあっていることを伝えたり、まあそんな感じの状態でした。

*13:すごーくうがった見方をすれば、1名は即死、1名は重体ののち日数が経過して死亡ということであれば、この記事内容でも矛盾はないかもしれません。ただそれを言い出すとなんでもありになってしまいます。

*14:これも正確には1970年を起点として前後5年程度調べたのですが、緩めた条件のものも見つかりませんでした。ただ結果を書き留めたのは、70-73年の間のものだけだったので

*15:これ以降ページ数を控えるのを忘れました

*16:

警察庁「犯罪統計書」集団自殺件数によれば、昭和30年代の親子心中件数は「概ね200件前後を推移」しているとのことなので、昭和45年前後が急激に一けた台になるとは考えにくいです。

「親子心中」に関する研究(1)―先行研究の検討― 川崎などH22 P36より)

*17:

広報ごじょうめ 1978年8月1日

http://www.town.gojome.akita.jp/S.52.1-H.15.4/gyosei_koho_img/koho0353.pdf

ただしこちらは「某町」ではなく「S町」にしています。

*18:

朝日2002年12月17日 夕刊 P15

*19:

細かい日付はWikipediaを参照しました。

北海道警察 - Wikipedia

本当は裏をとるべきなんでしょうが、まあ年は著者略歴とあってたので…

*20:

 

この随想集は、今の時代に、また、新しい時代のために、いままでの経験の中から何かをまとめては、との編集部の示唆に、まことに微力ながら、多少ともそいたいと思い、つたない筆をとったものである。

『愛はみちびく』P257

 

と、「随想」であることが著者からも示されています。

*21:

 1969年 11月25日/奥尻町総合研修センター落成記念祝典(青苗緑ヶ丘台地に建設

『新奥尻町史 下巻』奥尻町 2003 P510

 

*22:

過去の広報おくしり | 奥尻町

*23:

67号には、総合研修センターのロビーの写真が写っています。

f:id:ibenzo:20190818001938j:plain

http://www.town.okushiri.lg.jp/hotnews/files/00001500/00001584/20131001142139.pdf より

先ほどの概観の写真あわせて考えると、ここが玄関になりそうです。とりあえず設立当初には張り紙はありません。

*24:

交通事故は自動車の保有台数の増加と共に確実に増加し、1970年に71万80件で一度はピークを迎える。

交通事故の推移。1948年から2017年までの統計 | Park blog

 

*25:

【図解・社会】交通事故死者数の推移:時事ドットコム

*26:

正確に言うと、「禁止されている飲酒運転の範囲も「呼気1リットル中のアルコール量0.25mg」以上のものに限られ」ており、しかも罰則がありませんでした。それ未満のものに関しては違法ではなく、適法状態でした。

(以上交通安全コラム - 有限会社 シグナルより。以下も同様)

*27:

北海道新聞 南空知版 1970年6月26日

*28:

広報おくしり No.92 P8

http://www.town.okushiri.lg.jp/hotnews/files/00001500/00001582/20130930095354.pdf

*29:

広報おくしりNo.88(1972年10月)、No.92(1972年2月)など

*30:

ただ、改変の段階の可能性はいくつかあります。

①奥尻の研修センターに張られるとき

②桝谷が自著に書き写したとき

③新潟県警察本部が引用したとき

*31:

女児の性犯罪被害と子宮全摘 - Togetter