この前、アンパンチ論争をやなせたかしの思想から考えてみる、という記事を書きました。
そしたら、その2日後に、なんだか似たような記事が出ました。
ちょっと前にバズッた私のツイートの内容がそのまま掲載されていたり、「アンパンマンの正義」がやなせの戦争体験から生まれたことであることや、「善と悪のバランス」の話など、あまりにも似通った部分が多く、「くそ!パクられた!」と思ったのですが、よく読んでみると、これを書いた記者はどうやらちゃんと原本にあたってそうであり、同じ本を読んだら似た結論になるのは仕方がないかな…と、鷹揚に思ったりしました。
ただ、どうもこの記事は少々誤りがあることや、出典の明記の少なさ、ちょっと補足したいなあというところがあったので、記事にしてみました。正直かなり重箱の隅をつつく意趣返しの記事なので、あんまり読まなくてもいいです。
経歴がちょっと違う
やなせの経歴をオリコンはこう書きます。
漫画家を夢見つつも、製薬会社、新聞社、三越のグラフィックデザイナー、サンリオの絵本作家などを経験し、ようやく漫画家デビューを果たしたのは34歳のとき。
すごく簡単な年表を作ると、
1939年 東京田辺製薬宣伝部入社
1941年 九州・小倉野戦重砲七三部隊入隊
1946年 中国から帰国後、高知新聞社に入社。
1947年 三越百貨店宣伝部に入社。
1953年 三越を退社。フリーの漫画家になる。
という感じです。「漫画家」については、独立したのは1953年の34歳の時でしょうが、デビューとしては、高知新聞時代の1946年7月号掲載の「新版・キュウリ夫人傳」だそうです*1。「独立漫画派」に参加したのも1948年。「やなせたかし大全」では、やなせが「本格的に漫画家として活動をスタートさせたのは、『月刊高知』誌上である*2」としているので、やはりその近辺をデビューとするなら、「漫画家として独立をしたのは34歳の時」の方がいいんじゃないかなあ*3。
また、「サンリオの絵本作家」は誤りで、サンリオ(当時は山梨シルクセンター)から出版されたのは1966年の『愛する歌』という詩集が初めてです。当時、サンリオ(山梨シルクセンター)からは詩集しか出ていないはずなので、「絵本作家」ではありません。絵本作家としてはフレーベル館の方が有名ではないでしょうか*4。また、時系列的にも、漫画家として独立した後に詩集を出すので、前後しています。ちなみに、ホントかウソか、サンリオは「山梨」を音読みにしたものだとか*5。
あと、「アンパンマン」誕生の年を、
その後、『アンパンマン』が誕生したのは50歳の年だが、これもすぐには認められなかった。
と、50歳の年、1969年にしていますが、これは「十二の真珠」の連載第十回の、小太りのおじさんバージョンのアンパンマンですね。これは大人向けメルヘンとして位置づけられており、子供向けの「あんぱんまん」は1973年です。酷評されたのは1973年の方なので、「編集部、批評家、幼稚園から酷評された」と続くのであれば、1969年ではなく、1973年の方がよいのではないでしょうか。どうですか皆さん、こういう話が延々と続いていきますよ。
手塚治虫との関係
オリコンの記事はやなせと同世代の漫画家についてこう書きだしています。
やなせさんは、1919年(大正8年)生まれ。同世代には手塚治虫さんや水木しげるさんといった“天才”がおり、彼らが世に名を知らしめていくのを横目になかなか日の目を見なかった。
水木しげるは1922年生まれですが、手塚治虫は1928年生まれで、やなせとは9歳ほど差があります。大正生まれと昭和生まれの差がありますが、「同世代」と言っていいかちょっと微妙です。活動をしていた時期がかぶるという意味であれば同世代でしょうか。ただ、2013年のNHKの番組でも同じように「同世代」という表現を使っていたので*6、問題ないのかもしれません。
やなせの認知度があがったきっかけをアンパンマンの開始とするなら1973年です。水木しげるが「墓場鬼太郎」の第一作を描いたのが1960年で、手塚が「新寶島」を描いたのは1947年なので、やなせは遅咲きも遅咲きです。
ただ、生活が困窮していたというわけでもありません。正確には”漫画家として”は「日の目を見なかった」のであり、それなりに生活は安定していたようです。
みんなひどく貧乏だったから、会社員と二足の靴(もうワラジの時代ではない)のぼくは、仲間の中では金まわりがよかった。(中略)二階建の家を建て、ちゃっかり電話もひいて、さてこれでよしというところで退職した。
アンパンマンの遺書 P97
漫画集団員になっていて、大小あわせて二十五本の連載をもっていたが、中心になるものがなかった。
同上 P99
「俺は貧乏とか貧しい暮らしに耐えていくっていうのは嫌い*7」というぐらいだったので、貯金をしっかりしたり、借金を絶対に避けたり、そこらへんは堅実だったんですね。
他にも、1960年には永六輔に頼まれて『見上げてごらん夜の星を』のミュージカルの美術を頼まれたりもしています。アンパンマンが出るまで、ということであれば、1964年からはNHKの「まんが学校*8」に出演したり、宮城まり子*9のステージの構成を頼まれたりと、本人も不思議がってはいるのですが、大きな仕事もこなしています。ちなみに1969年には、美術監督・キャラクターデザインとして、手塚治虫から声を掛けられ、『千夜一夜物語』の盛作にかかわっています。「関心はな」いながらも、交流はあったようです*10。
けれど、漫画家としては代表作もなく、
しかし、三十歳を越えても、ぼくは完全に無名だった。まだ投書漫画家でしかなかった。内心あせったが、あせってもどうなるものでもない。
アンパンマンの遺書 P88
というような心境だったそうです。
また、手塚治虫をライバル視していたわけでもなく、
それはまったく別世界のできごとで、ぼくには無関係だった。
同上 P105
ぼくは手塚さんよりも十年も年長だが、まだ海のものとも山のものともしれず、「鉄腕アトム」も読んだことがなく、まったくの別の道をさまよっていた。
同上 P107-108
という感じで、むしろ「横目」にみていたのは、1956年に第一回文芸春秋漫画賞を受賞した谷内六郎*11や岡部冬彦*12といった、本当に自身の近くにいた人たちなのではないでしょうか。
凡庸な人間
自身も、自分は才能がなく凡庸な人間で、「人が10日でできることが、俺は1年ぐらいかかる」と語っている。
このセリフは糸井重里との2013年5月の対談*13からです。
ただ、筆は早かったようで(早くしていたようで)、
「(中略)なんとか三日間で書いていただけませんか」と頼まれたのです。(中略)こういうときは絶対にことわらない。この切羽つまったギリギリのスリルがたまらないんですね。
痛快!第二の青春 (講談社ヒューマンBooks) P79-80
頼まれれば絶対にことわらない、無理な仕事でも必ず締め切りに間にあわせるという職業病は治ってなくて「ええっ! もうできたんですか」と編集者がびっくりする顔を見るのが快感でね、全力あげてぶっとばしました。
同上 P90
という逸話も残っています。
しかし、詩に漫画に絵本に音楽に舞台に、多くの面で実績を残した人が「才能がなく凡庸」というのも、謙遜も謙遜ですねえ。
戦争体験
アンパンマンに込めた“本当の正義”とは、「お腹をすかせた人を救うこと」。彼は第二次世界大戦時、24歳で中国に出征。飢えに苦しみながらも日本の正義を信じて戦ったはずが、戦後「悪魔の軍隊」と呼ばれ、信じていた“正義”が一変した。
間違いではないのですが、やなせ自身はほとんど戦闘に参加していません。やなせは暗号班で、常に前線に行っていたわけではないからです。
ぼくは本格的な空襲を知らない。戦争も知らない。前線へ出征して、敵前上陸もやったし、一か月に及ぶ転進作戦にも参加した。
たしかに三度ばかり弾丸の洗礼もうけたが、戦争をしていたのは別の兵隊で、ぼくは何もしなかった。
アンパンマンの遺書 P58
そのため、やなせは自分の戦争経験に「ある種の恥ずかしさ(前掲 P58)」を感じているとも語っています。
しかし、この経験がアンパンマンにつながるのはその通りで、
俺は爆撃されたこともなければ戦ったこともない。ただ、その時に「飢える」ということはどんなに辛いかっていうことがわかったっていうことですね。
ユリイカ 2013年8月臨時増刊号 P94
と、福州での籠城時の空腹経験から語っています。
自著『アンパンマンの遺言』(岩波現代文庫)では、「正義のための戦いなんてどこにもないのだ 正義はある日 突然反転する 逆転しない正義は献身と愛だ 目の前で餓死しそうな人がいるとすれば その人に 一片のパンを与えること」と綴っている。
これは誤字があり、「アンパンマンの遺言」ではなく、「アンパンマンの遺書」です。また、細かいところですが、「突然反転する」ではなく、「突然逆転する」、「ある日」ではなく「或る日」、「目の前」ではなく「眼の前」。しかも、この引用はちょっと簡略化されています。
しかし、正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
正義は或る日突然逆転する。
正義は信じがたい。
僕は骨身に徹してこのことを知った。これが戦後のぼくの思想の基本になる。
逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。これがアンパンマンの原点になるのだが、まだアンパンマンは影も形もない。
アンパンマンの遺書 P61
ただ、私は1995年版を参照しているのですが、オリコンは2013年の文庫化したものを使っているようなので、表記などは改められた可能性もあります。
やなせはアンパンマンか
自分の顔を分け与え、自己犠牲の上に正義を貫くアンパンマンは、弱くも強いやなせさんの姿そのものだったのである。
これは全くその通りなんですが、やなせ自身は同一視されるのをそこまで好んでいたわけでもなさそうだな、というのを感じるコメントもあります。
やなせ そうアンパンマンは、ややぼくに似ているところがある。
戸田 そのものですよ。
やなせ いつも敵にやっつけられてしまってジャムおじさんに助けを求めている(笑)。いつもそうなんだ。でも、そもそもぼくの立場は、ジャムおじさんなんだよね。アンパンマンを作っているから。
ユリイカ 2013年8月臨時増刊号 P54
糸井 先生ご自身がアンパンマンのようですね(笑)。顔を食べちゃっていいよっていう。
やなせ これがですね、俺はアンパンマンみたいな人間じゃないって思ってたんだけど、現実にはどうもそうなってしまってね、稼いでも稼いでも人のためにお金を使ってしまってるんです。
同上 P15
それよりかは、「アンパンマンがぼくらの子供だ」と考える方が好きだったかもしれません*14。
アンパンマン大研究
1973年からアンパンマンの絵本を発行しているフレーベル館は、やなせさんとともにさまざまな読者の疑問に答えた『アンパンマン大研究』を出版している。
これは既にツイートで指摘したんですが、ちょっと不正確です。
こちらは、鈴木一義という、中学校の先生との共同執筆、という形になっています。
ある日、『アンパンマン世界の研究』というパンフレットが送られてきた。差出人は、山形県の中学校で理科の先生をしている鈴木一義さんという人だった。(中略)鈴木先生は、その質問に答えるかたちで、研究をまとめている。(中略)鈴木先生の研究以外のことも少し加え、僕の考えは「やなせもひとこと」として別に書いた。
同上 P2
そのため、
「アンパンマンは、なぜすぐにばいきんまんをアンパンチでぶっ飛ばさないのですか?」という問いには、「ばいきんまんの悪事をとめるのが目的で、やっつけることが目的ではないからです」と答えている。
とオリコンは書いていますが、下線部はやなせの答えではなく、その鈴木先生の答えになります。やなせは「できれば闘いたくない、ばいきんまんとも友達でいたいのです。だけど、そうもいかないのでこらしめるために、アンパンチ!(P56)」と別に答えています。
アンパンマンと菌の話
アンパンマンとばいきんまんは、酵母菌がなければできないパンや無菌状態では生きていけない人間同様、闘いながら共生している。しかし、菌が増えすぎてしまっては美味しいパンはできないし、人間も病気にかかってしまう。
この菌の関係の話は、この記事を書いた人のオリジナルではなく、やなせ自身が語っていることをリライトした感じです。
それから、酵母菌のようにパンを作るのに必要な菌もあるし、納豆菌、乳酸菌、有用善玉菌もたくさんある。ばい菌はいろいろです。
残念ながらそれが健康な社会なんですね。ばい菌が絶滅すると、人間も絶滅する。絶えず両方が拮抗して戦っているというのが健康なんです。
わたしが正義について語るなら (未来のおとなへ語る) P156-157
ですから、人間対ばい菌の闘いっていうのは永遠に続いていくんですよ。いつまで経っても終わらないんです。(中略)ばい菌の中に、つまりいいばい菌がいるんですよ。パンだって酵母菌、あるいはイースト菌というばい菌の力でできるわけ。納豆菌がいて、ビフィズス菌がいる。だから菌の中にもいいのと悪いのがいて、それが闘ってる。
ユリイカ 2013年8月臨時増刊号 P102
記事は末尾に「最期まで自分自身に“アンパンチ”を下しながら」とありますが、それよりかは、「最期まであんパンを配っていた」の方が、やなせの人生にあっている気がします。
というわけで今日の記事は以上です。次はちゃんとしたものを書きます。
*1:
やなせたかし大全―TAKASHI YANASE ON STAGE P18
*2:同上 P34
*3:
ただ、NHKの番組でも、34歳をデビューの年と言ってるんですよね…
34歳で漫画家としてデビューした、やなせさん。
*4:サンリオからも絵本は出してはいますが。「十二の真珠」「アリスのさくらんぼ」など。ただ、時系列としても「手のひらを太陽に」より後になります
*5:
*6:
しかし、同世代の手塚治虫たちが活躍する一方、ヒット作に恵まれませんでした。
*7:
ユリイカ 2013年8月臨時増刊号 P95
*8:
1964年4月6日から1967年3月27日までNHK総合テレビジョンで放送された児童向け番組である。当時頭角を現わしていた落語家の立川談志が司会、漫画家のやなせたかしが漫画の指導やクイズ出題を担当した。
*9:
*10:
手塚治虫は、その頃は既に漫画の神様に近く(中略)ぼくとはまったく世界がちがったから、ほとんど関心はなかった。
ただ、数年前にぼくの所属していた漫画集団に入団していたので、総会とか忘年会とかでは顔をあわせたていたし、いっしょに旅行することもあった。
アンパンマンの遺書 P146-147
*11:
*12:
岡部冬彦 - Wikipedia 「きかんしゃやえもん」の人だというとわかりますかね。
*13:
「箱入りじいさん」の94年。 やなせたかし×糸井重里 - ほぼ日刊イトイ新聞
上記ページには2013年8月13日の日付が入っているのですが、これは掲載した日付です。
*14:
ぼくら夫婦には子供がなかった。妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞客に配っていた。アンパンマンがぼくらの子供だ。
アンパンマンの遺書 P225