おかげさまで前回の記事がホッテントリになりました。
はてブが300を超えたのは初めてだったので、皆様どうもありがとうございます。
さて、そのときいくつかご指摘いただいたのが、「地震で瓦が落ちる云々の話は、樋口清之の『梅干と日本刀』が初出ではないか」というようなことでした。いやあ、知ってる人は知ってるんですね。
本当は前記事の追記で書こうと思ったのですが、調べ始めたら追記にするにはちょっと長くなったので、別記事にさせていただきました。参考にしてください。
1.樋口先生の「瓦と地震」理論について
樋口清之先生は、明治生まれの考古学者・民俗学者で、世間的に有名になったのが、この『梅干と日本刀』などによる、「日本人論」であるとされています。
件の『梅干と日本刀』(1974)を読むと、確かに該当する箇所がありました。1章の「日本には古来、すごい”科学”があった」には、以下のように書かれています。
城の石垣が、日本の測量技術の高さから緻密にくみ上げられていると指摘し、日本の木造建築物が「力学的な力の分散法」によって「家を倒れなくしている」と書いて、こう続けます。
そこに、さらに重い屋根瓦を乗せて、下に力をかけてあるから、ますます安全になる。しかも、この防備の限界を超えると瓦が落ちて屋根の重量をなくし、家組みの倒壊を防ぐようにしてある*1。
また、3章の「日本人は”独創性”に富んでいる」にも、「なぜ、東大寺大仏殿は倒れたことがないのか?」という項目で、以下のような記述があります。
瓦を中国が釘で固定するところを*2、日本はドロで固定したのだが、「この滑ることがねらい」として、以下に続きます。
地震があって、家が一方に傾くと、傾いたほうの瓦が滑り落ちる。その限界は二五度だと言われるが、一方が落ちると、当然、反対側が重くなり、その力で家は反対側に復元し、さらに傾いてそちらの瓦も落ちる。一、二の二動作で瓦が落ちると、屋根は裸になって軽量になり、建物の木組みだけが残って、押しつぶされることがない。もし、中国の方式に従ってクギでとめてあれば、一も二もなく、その重量で押しつぶされているだろう*3。
だから、東大寺の大仏殿は、台風や地震で倒れたことがない、としています。
さあ、樋口先生が、この説をご自身で考えられたのか、それとも何かの文献にあたってのことなのか、その辺がどうも判然としません。「大仏殿が地震にあったけど瓦が落ちたおかげで倒れなかったよー」みたいな記録が残っていた、ということであれば話はすっきりするのですが、そういうソースを樋口先生は提示されていません。
一応、近場の図書館で読めるだけの樋口先生の著書は拝読したのですが*4、同じような内容の記述も見られます。
たとえば『日本人は優秀である』(ごま書房)1997には、こんな記述。
しかし、その大仏殿も二十七度、一方に片寄ると、片側のかわらは全部落ちるようになっている。軒瓦以外は釘で止めてないで、泥で置いてあるだけだ。そこで片側が落ちると反対側が重くなるから、反対側へと傾き直す。したがって二挙動で大仏殿は裸になるが、かわらは落ちても建物は助かる。(中略)この原理で大仏殿は千二百年間、地震でも風でも倒れなかった*5。
この本は、『亡びない日本人』(泰流社)1977の改訂・再編集の本なので、『梅干と日本刀』の話題をベースにしたものでしょう。相違点としては、傾きの角度がちょっと違うところ、中国の釘止めの話がないところ、というところでしょうか。
一方で、時代がくだって1991年の『「温故知新」と「一所懸命」』(NTT出版)では、「日本家屋の地震の知恵」ということで、日本の木造建築が「建物自体が柔軟」で「地震のエネルギーが分散するようにできている」としていますが、瓦に関する言及はありません*6。
さかのぼって1967年の『日本の伝統生きている歴史〈第2〉』(人物往来社)では、飛騨の匠のかんながけのすごさなどについての記述はありますが、木造建築や瓦についての記述はありません。
つまり、この「瓦と地震」理論が、樋口先生提唱のものであるならば、1970年代のほんの一時期にのみ、言及されていたものだということになります。調べた限りでは、この理論について樋口先生はこれ以降沈黙しています。ついでに言えば、他の歴史学者もこれに追随している気配が、調べた限りではありません。
2.東大寺大仏殿が倒れなかったのはなぜか
しかし、樋口先生が「瓦と地震」理論で根拠に出している「東大寺大仏殿」、確かに世界最大級の木造建築でありながら、およそ300年もの間、倒壊していないことにはなります*7。これは「瓦と地震」理論のおかげなのか。
残念ながら、恐らくそうではありません。
あまり知られていないことですが、実は東大寺大仏殿は、妻木頼黄*8の設計により、明治39年(明治24年設計の記述もある)から屋根の大改修を行っており、「大屋根を支える虹粱(こうりょう)にイギリス製の鉄骨トラスを組み込まれ」ています*9。言ってしまえば、ちょっとした耐震工事が既に行われているわけです*10。
しかもそのときに、軽量化のために屋根の瓦の量を13万枚から10万枚程度に減らされたのだとか。その間をうめたモルタルなどの劣化で雨漏りがひどくなり、昭和48年からの大改修につながっていくのです。
つまり、200年あまりで、東大寺大仏殿は、構造上の問題を抱えることになったわけです。樋口先生が言うような日本のすばらしい「柔構造」は、残念ながら永遠にうまくいくものでもなかった、ということになります。
そして、この「瓦と地震」理論が正しいならば、大きな地震のたびに、東大寺大仏殿は、瓦が大量に落下せねばなりません。1709年以降、都合8回の大きな地震が起こっていますが*11、調べた限りでは、どうもそんな記録はなさそうです。
・今日のまとめ
①「瓦はわざと地震で落下する」理論は、1974年樋口清之『梅干と日本刀』が(恐らく)初出である。
②樋口自身も(また他の歴史学者も)、この「瓦と地震」の話を70年代以降にしている形跡がないため、信憑性は薄い。
③樋口が根拠に挙げた東大寺大仏殿は明治には鉄骨が組まれており、構造上の問題を既に抱えていた。
樋口先生の『梅干と日本刀』は、歴史書というよりも、ちょっとした歴史の裏話と言った、軽い感じの読み物です。樋口先生は、1990年の愛蔵版刊行の際に、以下のようなコメントを残しています。
昭和四十九年の日本といえば、前年の石油ショックの影響で猛烈なインフレが巻き起こり、倒産する企業が続出していた。また、いわゆる「田中金脈問題」がマスコミを騒がせたのも、このころであった。いわば、三〇年続いた戦後の日本のあり方に対して、日本人が自信を失いかけていた季節だったとも言えるだろう。
だからこそ、「欧米至上主義に逆戻り」しないよう、この本を「警鐘を鳴らさんと意気込んで作った」のだそうです。なので、与太話とまでは言いませんが、そこまで歴史事実にとらわれた語りをしたわけではなかったでしょう。
しかし、上記の樋口先生のコメントは、なかなか今の日本にも当てはまるものがあるような気がします。こういう「日本はすごい」コールは、右へ左へ、時代ごとに行ったり来たりしているだけなんでしょう。「日本はすごい」という人がすごいわけではありません。結局は、それで楽をせずに、自分自身を研鑽していかなければならないと、自戒をこめて思います。
樋口先生は、同じ愛蔵版の巻頭に、こんなコメントも残しています。
それから十五年、日本は世界一の経済大国になり、日本人は自信に満ち溢れている。しかし今度は逆に、浅薄なる日本至上主義が蔓延する危険性がないわけではない。本書において私は、単なる日本礼讃論ではなく、歴史研究におけるバランス感覚の重要性を説いたつもりでいる。状況は当時と一変したが、今日ますます、この感覚が求められているのではと信じて、愛蔵版として再び世に送ることにした。
こう書いた人の主張が、現代にこうしてネットロアとして現れてしまうことは、なかなか皮肉なものを感じます。
*1:『梅干と日本刀』樋口清之(祥伝社)P37-38 引用したのは「愛蔵版」のほうで、これは平成2年出版のもの。ただし内容は変わっていないそうです
*2:正直、中国の瓦は全て釘で止めている、というように読めますが、それはちょっとアヤシイ。たとえば以下のサイトは、中国の古建築の瓦葺きの方法について翻訳しているのですが、通常の土葺きの方法もあるようです。
148 中国古建築 瓦葺きの技術⑥ 平台頂と宮殿屋根下地の工法1 : 日本じゃ無名?の取って置きの中国一人旅
*3:前掲書 P178
*4:以下の著書を読みました。
新・梅干と日本刀 江戸・東京編―強靱で、しなやかな日本文化のルーツ (ノン・ブック)
日本人のお家芸 逆発想法―梅干し博士の日本再発見講座〈4〉 (梅干し博士の日本再発見講座 4)
樋口清之博士のおもしろ雑学日本「意外」史 (知的生きかた文庫)
「温故知新」と「一所懸命」―2000年の歴史に秘められた日本人の知恵を探る
うめぼし博士の 逆(さかさ)・日本史〈武士の時代編〉江戸 戦国 鎌倉 (ノン・ポシェット)
日本風俗の起源99の謎―礼儀作法とはなにか (1976年) (サンポウ・ブックス)
日本の伝統生きている歴史〈第2〉 (1967年) (歴史選書)
没後に再編集して出されたものも多いですが。
*5:『日本人は優秀である』(ごま書房)1997 P22
*6:『「温故知新」と「一所懸命」』(NTT出版)P104
ここには正確な再建の年が書いてありませんが、各種記述に寄れば1709年に落慶とのこと
*8:赤レンガ倉庫の設計者です
*10:とはいっても、この工事には批判も多い。