ネットロアをめぐる冒険

ネットにちらばる都市伝説=ネットロアを、できるかぎり解決していきます。

千羽鶴を被災地に送るべきではない理由はあるか、折鶴界のパラダイムシフト

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久しぶりの更新となりましたが、時間が空いたのには今回の記事の資料集めに、かなり足を使ったのと、本職が忙しすぎたためです。私もイケダなんとかみたいになりたい。

 

さて、熊本地震の被災地に千羽鶴を送るか否かで論争が起こっています。

www.j-cast.com

「なんで千羽鶴なのか意味不明。一番いいのは、寄付金だと思う」といったものや、「善意を踏みにじるのか」といったような意見もあるようで、相変わらずネットの外野は喧々諤々しているみたいです。そもそも、「現地に千羽鶴を送る」ことが、本来の千羽鶴の意味的に正しいのかどうかという話もあります*1

 

ついでに、こんなツイートもホットになっています。

どうやら、道徳の時間に折らされた中高生が、「善意を踏みにじるのか」発言をしているのではないか、ということのようです。

しかし、このツイートに関して言えば、この人がどうやって「よくよく追跡して」みたのかが不明ですし、「本当に中高生が多い」のかどうかは、いくらなんでもテキトーこきすぎな気もします*2

 

ただし、「私も道徳の時間に折らされた」というコメントは結構多いので、過去に「中高生だった」大人の意見としてみるならば、どうも、千羽鶴と学校教育の道徳の時間は結びつきそうです。

 

というわけで、今回は、「そもそも千羽鶴の由来はなんなのか」「千羽鶴がどれほど学校教育に根ざしてきたのか」というところに焦点をあてて、「被災地に千羽鶴は送ったほうがいいのか否か」を検証していきたいかと思います。相変わらず長くなってしまったので、メンドウな人はまとめだけ読んでください。

 

***

 

「千羽鶴」の呼称について

そもそも、千羽鶴は何から始まったのか。

これは調べるのがなかなか難しい。というより、学術的には放置されている分野かと思われます。

よく言われるのが、1797年に発行された『秘伝千羽鶴折形』という本です。

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これは、魯縞庵(ろこうあん)という桑名の坊さんが、一枚の和紙からいくつも連なった折鶴を折りつなぐ方法を考え、「そいつぁすごい」と、秋里籬島(りとう)という人が編集したものです*3

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d1/%E7%99%BE%E9%B6%B4.JPG

 

なので、現在のひとつの糸に連ねて束ねる「千羽鶴」とは趣を異にします。

しかしながら、そもそも「千羽鶴」とは、長寿を意味する「鶴」が多数集まることでおめでたさを表すことであり、時代は下りますが、日本画や着物の柄として描かれるときは、このつなぎ折鶴のように、横いっぱいに広がるような描かれ方をします*4

実際に、この『秘伝千羽鶴折形』では、序文にこんなことが書いてあります。

鶴は巨万(おほく)の宝を得ると明の劉基も作られたり

ここに数の鶴を折れる法ありこれぞすなはち長生千とせの齢あれば 百の鶴に 十万の寿あり

千の鶴には百万歳のよはひを保つめでたきためし*5

つまり、「千の鶴」を折ることで、ここでは「長命」の効があると述べているわけです。額面どおり明の時代からと受け取るわけにはいきませんが、この「千の鶴」の縁起のよさの意味は、この時代よりももっと昔よりある、と思っても構わないかと思います。「千羽鶴」という呼称が、魯縞庵なり秋里籬島なりが名づけたのかどうかまではわかりませんが、人々のイメージにある「千の鶴」は、むしろ彼らがつくった、平面的に広がるつなぎ折鶴の方が近かったと言っていいでしょう。

 

これは時代が下っても続いていて、たとえば大正15年の『清元選集』*6という本には、謡曲のような感じで、頼朝が「千羽鶴」を放つ姿が映える様子が描かれたり、大正2年の『お伽五十塔』*7の中では、童話のような形で、鶴を「長生きする」鳥として扱い、悪い鷲から救い出し、ラストは「都合千羽の雛鶴が御殿のお庭に飛び下」る様子が描かれています。これは、「千羽鶴」という呼称が平面的な広がりでもってイメージされている一つの証左でしょう。

 

現在の千羽鶴の形になったのはいつからか

では、現代の糸で立体的に連なるような「千羽鶴」に変わったのはいつなのか。

これも調べるのがとても難しい。

そもそも折鶴が作られるようになった由来もはっきりとしていません。よく言われるのが井原西鶴の『好色一代男』(1682)の「「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」」を作るという記述です。それ以前から折鶴は存在していたのではないか、ということです。

ただ、遊戯的な側面もあったようですが、息を吹き込み川に流す「厄除け」といった民俗学的な意味もこめられたようです*8。神社にある紙垂なんかもきっとそんな意味があるでしょうから、和紙や布に何か意味をもたせる、というのは古来からの手法ではあるかとは思います。

 

その昔からある「折鶴」が、魯縞庵の「千羽鶴折形」となり、それが現代の「千羽鶴」へ形を変化させていった、と見るのが妥当かもしれませんが、個人的には、魯縞庵の「千羽鶴折形」の「連鶴」はあまり売れ行きも良くなかったようですし、技術的に全国に広まったとは言えないので、魯縞庵の「千羽鶴」を、現代の「千羽鶴」の原型のように説明するのはちょっと違う気がします。あくまで、現代風の立体的な「千羽鶴」は、独立した形で広まっていったように思います。

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しかし、それならば、魯縞庵の「千羽鶴折形」の時代よりも前に、立体的「千羽鶴」があったのならば、恐らく魯縞庵は「千羽鶴」とは名づけなかったでしょうから、それよりも後ということになると仮定できます。

 

では、いつごろから立体的「千羽鶴」は存在するのか。

 

確とした年月は定まらないのですが、いくつかの文学作品からヒントは得られます。

 

例えば昭和3年に発行された小川未明の『未明童話集第4巻』には「千羽鶴」という作品が収められていて、「人の好いお婆さん」が 、「お宮がさびし」いのを気にかけて、「神様に捧げる鶴を造り」、「拝殿の扉の格子に吊し」たという描写があります。つまりこの時代に、現代的な千羽鶴を作ることは常識的だったわけです。

 

森鴎外の妹の小金井喜美子の『鴎外の思い出』という作品にも同じような千羽鶴が出てきます。

 

お堂の中には、小指の先ほどの括り猿ざるや、千代紙で折った、これも小さな折鶴を繋いだのが、幾つともなく天井から下っています。何を願うのでしょうか。*9

 

この作品自体は1956年のもののようですが、作中の「思い出」は明治9年(1876年)ごろであり、小金井の記憶が正しいとするならば、明治の初めには既に現代的な千羽鶴は存在していたわけです。

 

ということは、『千羽鶴折形』発行の1797年から1876年(あるいはもっと以前)の間に、既に、現代的な立体の「千羽鶴」は成立したことになります。19世紀のはじめといったところなんでしょうか*10

 

千羽鶴はどこに飾るものなのか

 

しかしこれらの作品を見て気付くのは、「千羽鶴」が神社仏閣に奉納されているということです。

 

もちろん現代でも千羽鶴は奉納されますが、近代の文学作品を見る限り、基本的に「千羽鶴」は、奉納されるべきもの、という認識が強いように思います。

 

例えば、昭和17年の『合歓の並木』という小説*11に、孫が祖母と千羽鶴を折る描写が出てきます。

 

「おばあちゃん、あれ(千羽鶴のこと:引用者注)はなあに?」

「あれはな、観音様にお願ひをする人があげたのだよ。おゝ、さうだ。房うと二人で、一つこしらへてお上げ申さうかな」*12

 

つまり、この頃は、長寿なり健康なりを「願掛け」するために千羽鶴は折られるのであり、その「願掛け」が成功するためには、神社仏閣にお供えしなければならないわけです。

 

その頃の「千羽鶴」に対する考えを示す資料に興味深いものがあります。

『芸能科工作研究折紙による練成』*13という昭和16年に発行されたもので、今で言う図画工作における折り紙授業の有用性を説いたものなのですが、こんな記述があります。

 

千羽鶴は古来一の民間信仰から神社、仏閣等に献納するものであるが、之をば級友の父兄の武運長久祈願の為めに神社に奉納するとか、或は不幸なる夭折児の冥福を祈る為めに其の菩提寺に納むるとかいふ風に発展せしむるならば、友愛的結合が更に一層有意義なる情操の醇化練成にまで発展して行くであらう。*14

 

重要なのは、この記述が「千羽鶴」の民俗学的真実かどうかではなく、「千羽鶴」に対して世間一般はどうやらこのような認識であった、ということです。 昭和初期の頃までは、「千羽鶴」は奉納するもの、という認識が強かったようです。

 

そう考えてみると、千羽鶴の形が気になります。連鶴のような横の広がりではなく、三次元の空間的な高さをもっている形であるので、保管をする際に天井がある程度高くなければなりません。その意味で、通常の家屋よりも、神社仏閣のような高い屋根をもつ建物は、保管に適しています。というか、そもそもお宮や御殿に飾るために、千羽鶴の立体的な形が生まれた、というのが自然な考え方ではないでしょうか。

 

 

千羽鶴の意味はどのように変化していったのか

さて、昭和の初期までは神社仏閣に奉納されるもの、として認識されていた「千羽鶴」が、いつから病人に直接贈ったりするようになったんでしょうか。

 

朝日新聞の昭和20年5月30日の記事にこんなものがあります。

 

「白衣勇士に折鶴と造花」

病床に再起の日を念じて身を養ふ海の勇士を慰めようと鎌倉高女二年生の乙女四名は多忙な動員の余暇を割いて折鶴千羽、造花花籠、三個しをり等心を籠めた手芸品を製作「どうか一日も早く全快して下さい」といふ手紙を添へて本社横須賀支局を通じ二十八日横須賀海軍病院に寄贈した、病院では何よりの贈物と早速白衣の勇士の枕頭に飾つて回復を祈る乙女の真心を通はすことになつた。

 

戦時中も戦時中の折ですが、おお、直接病人に贈っちゃってますな。記事としてはこれしか発見できなかったのですが、書き方として目新しい出来事という感じはしないので、銃後ではこういった「直接贈る」慰問的風習が流行ったのではないでしょうか。

 

あの図工の教練本からたった4年で、「千羽鶴」に対する認識は大きくパラダイム・シフトを遂げることになったわけです。その要因はやはり戦争でしょう。平時よりもけが人や病人は増えるでしょうし、兵隊の慰問に子どもから何かを贈る、という習慣は多々あったと聞きます。その時に、元手のかからない千羽鶴や千人針と言った、「願掛け」の道具は重宝なものであったでしょう。この時代において、「千羽鶴」は「対神様」から「対人間」に対象が変化してきたわけです。

 

そして、もっとも大きなパラダイム・シフトが、佐々木禎子の千羽鶴です。

 

佐々木禎子は広島の原爆の被害に2歳の頃に巻き込まれながらも、特に大きな怪我もなく成長しますが、12歳のときにそのときの被爆に起因する白血病にかかります。入院のときに折り続けたのが千羽鶴ということで、彼女の死後、この話は急速に広まり、彼女をモデルとした「原爆の子の像」の完成でもって、「千羽鶴」には「平和への願い」という、新たな意味を付加されることになるのです。

 

そもそも、禎子が千羽鶴を折るきっかけになったのは、名古屋にある淑徳高校の女生徒たちが、「原爆患者」に向けて千羽鶴を贈ったことでした*15。禎子は病院に贈られてきたそれを見て、自分も「早く良くなりたい」と、千羽鶴を折り始めたといいます*16。海外でこの禎子の話が物語として書かれ、諸外国の反核運動に利用されていったことも、「平和」という意味を仮託された原因の一つでもあるでしょう*17

 

この「原爆の子の像」設立の物語はメディアに大きく取り上げられ、1958年に『千羽鶴』として映画化もされます。本来は、佐々木禎子の冥福を祈るために建てようとはじめた小さな子どもの活動が、いつしか様々な団体の様々な思惑によって、政治的な色彩を帯び始め、「千羽鶴」が、禎子たちの願いとは別の願いを仮託されることになったのです。1952年にサンフランシスコ平和条約が発効され、統制されていた戦時中の情報が徐々に明らかになってきた時代でもあったことも大きいでしょう。「こけしの会」として活動を始めた禎子の同級生たちが、「わしら、ほんまに、あがあなものを建てたかったんじゃろうか」と呟いたという話がとても印象的です*18。「千羽鶴」は、「願い」の象徴として、その身に余る大きな変化を遂げるのです。

 

 

これ以降、「千羽鶴」は、ありとあらゆる願いを仮託されることになります。

 

あるときは将来の夢を託され、

このY子が千羽鶴を折りはじめた。何か願いがあるの?と私はいった。Y子はだまって笑っていた。が、私はY子が千羽鶴に夢を託している気がした。弟と二人で暮らせる日を願っているのではないかと思い、いじらしい気がするのである。(毎日新聞1958.1.28)

あるときは勝利の夢を託され、

「不自由児に千羽鶴贈る 悪条件下に戦った全積水ナイン」

(前略)この千羽ヅルには、会社不況とチーム解散という悪条件のなかで、戦ってきた全積水の選手とファンの一女性の願いがたくされていた。(毎日新聞1966.07.26)

あるときは鎮魂の願いを託され、

四十七人の生命をのんだ定期船”ときわ丸”沈没現場の海で八日午後"惨事をふたたびくりかえさないで”の願いをこめた千羽ヅルが遺族たちの手で流された。この千羽ヅルは東京都大田区内の小学生たちが真心こめてつくったもので作文もそえられていた。(毎日新聞1963.03.09)

あるときは交通事故防止の願いまで託され、

全校討論「平和について」の話し合いがもたれた際、同クラスでは、人名が毎日のように奪われるという点で「交通安全」に話が及び、事故絶滅を願って全員で千羽鶴を折ることになったという。(朝日新聞1990.09.01)

 

なんというか、ちょっと業務過多な気がします。

 

この「千羽鶴」の飽和状態をよく思わない人も中にはいて、1976年8月28日の毎日新聞に、「「千羽鶴」を考える」という投書が載っています。「千羽鶴」を「感覚の違う外人」に贈る様子を「視野の狭い独善」と断罪し、公共の建物に、バランスを考えずに配置された千羽鶴を「グロテスク」と表現して、最後にこう締めくくります。

 

かつての千人針も発想は尊いにしても、最後は迷惑だったと聞く。千人針も千羽鶴も、気にいらないから捨てるというわけにはいかないものだけに、贈り手の側の立体的な心くばりがないと、精神的な"田舎者”といわれても、仕方がないのではなかろうか。渡してしまえば、それで気がすむ、というものでもあるまい。千羽鶴は、日本人の幼児性の、ごく象徴的なものの一つにしかすぎないのである。

 

既に40年前から、「千羽鶴」の厄介な部分について言及している人はいたわけです。本来の意味から変化に変化を重ねてきた「千羽鶴」なのですから、こうした戸惑いは出てきてもおかしくはないのでしょう。

 

千羽鶴と道徳教育

最後に、少しだけ道徳教育に触れます。

前述の記事を読むと、千羽鶴を作るのは小学生や中学生と言った子どもであることが目立ちます。

今回調べ切れなかったのですが、前述した佐々木禎子の話は、「生命尊重」の話で、多くの学校で教材として取り上げられているようです*19

 

戦後「道徳」が、学校の授業に取り入れられ始めたのは1958年。奇しくも原爆の子の像の完成の年でもあります。その年の『教育技術13』によれば、「道徳教育ブームにのって」「子ども向きの副読本やら読み物を作って一もうけしようと意気ごんでいる」とのことだったとか。

 

実際にその頃、各出版社が出している副読本にあたれればよかったのですが、ちょっとできなかったので、あとは推測になりますが、「平和教育」の一環として、この禎子と「千羽鶴」の話は、学校教育にも広まっていったのではないでしょうか*20。そして、「千羽鶴」が、「願い」の象徴として、なかなかオールマイティーに使えることにも気付いた。それがある種の技法として、学校現場に残り続けたんではないでしょうか。ただし、この関連に関しては調査不足なので、なんともいえません。

 

まとめ

①もともと「千羽鶴」は平面的に鶴が群れを成す図であり、『秘伝千羽鶴折形』で示されたようなつなぎ折鶴の折り方は、それを体現したもののようだ。

②千羽鶴は、『千羽鶴折形』以降に別系統で考案されたものとするならば、およそ19世紀前半に確立されたものではないか。

③千羽鶴は最初は神社仏閣に奉納するものであり、そもそもその形状は奉納できるような形で考案されたのではないか。

④太平洋戦争の折に、慰問の道具や見舞い品として、元手がかからない千人針や千羽鶴といった「願掛け」が直接本人に贈られるようになってきた。

⑤「原爆の子の像」をめぐるメディアの報道により「千羽鶴」の存在が誇張され、現代に続く飽和的な「願い」の象徴的存在となったのではないか。そのギャップは40年も前から言われている。

 

私は、この「千羽鶴」の習慣は、なかなか悪くないものと考えています。

 

物質主義的な現代において、とかく「無駄」「余剰」の作業は敬遠されがちですが、本来「祈り」というものは、そういう「余剰」から生まれたものです。というか、人間の創造的活動はおおよそ「余剰」から生まれたものだと、養老孟司先生も言っています。見も知らぬ人のために心から祈るって、そんなことをこの資本主義の世の中でする人がどれだけおりますか。

 

とはいっても、直接送るのはいろいろ不都合はありそうですから、どうしても折ってしまったのなら、どうぞお近くの神社仏閣に奉納するのがいいんじゃないんでしょうか。それが本来のやりかたでもありそうですし、彼らには必殺のお焚き上げもありますし。みなさん、もうちょっと神様と仲良くなりましょうよ。 

 

 

 

 

*1:

www.02320.net

調べている途中で上記記事が見つかったのですが、「被災地に送るべきではない」という点は賛同しますが、そこにいたる論拠が甘いのと誤認もいくつかあるので、本稿が補強になればと思います。

*2:被災者の「千羽鶴はいらない」に激怒する人達 - Togetterまとめ

たとえば上記のtogetterのまとめのツイートを丁寧にすべて見ましたが、「確実に中高生だ」と言える人は5,6人と言ったところでした。

 

試みにツイッターで10代(と思しき人)のツイートから、絨毯爆撃的に「鶴」を検索していってもみました。方法は以下の通り。

①「授業」「数Ⅰ」などの学校生活ワードで、明らかに中高生っぽい人をピックアップする。

②「from:ユーザー名 鶴」で検索をかける。

を、20人ほどして、一人も千羽鶴について呟いている中高生がいなかったので、面倒くさくなってやめてしまいました。このツイート主は、よほど周りに中高生がいる環境なのか、観察できる環境なのかもしれませんが、まあ、子どもとの会話でよくある「だってみんなゲームもってるもん!」「みんなって誰よ?」「えーっと、タロウくんと、ハナコちゃん」「2人じゃん!」みたいな感じかと思います。誰か正確になんかアルゴリズムを作って調べてみてください。

*3:『改訂版つなぎ折鶴の世界』岡村昌夫(本の泉)2006より

「連鶴」という呼称が広まっていますが、その呼び方は特にこの書物にはあらわれていないので、比較的最近のものであり、「つなぎ折鶴」の方が妥当だろう、と岡村は書いています。

*4:例えば前田青邨の「千羽鶴」

前田青邨 『千羽鶴』 彩美版・シルクスクリーン手摺り・一部本金泥使用

これは1960年ごろの作品との事ですが、たぶんもっと前からこういう画題はあったはず

*5:『江戸の古典 魯縞庵作 千羽鶴折形全 おりがみ』笠原邦彦(すばる書房)昭和51より

*6:井口菊奴編 法木書店

*7:木村小舟 一二三館

国立国会図書館デジタルコレクション - お伽五十塔 : 学校家庭

*8:前掲『改訂版つなぎ折鶴の世界』P2 ただし岡村のこの説が何をよりしろにしているのかが不明であり、ちょっとばかり心もとない説ではあります

*9:小金井喜美子 鴎外の思い出

*10:そもそも、折鶴を折るためには正方形の紙が必要であり、江戸時代の折形では、和紙を自分で切って作っていました。現在のように一度にたくさんの鶴を作るためには、予め正方形に切れている紙が必要です。ということは、やはり現在のような千羽鶴の形の時代はだいぶ下るのではないでしょうか

*11:加藤武雄 博文館

*12:『合歓の並木』P348

*13:西館弥輔・教育実際社

*14:近代デジタルライブラリー - 芸能科工作研究折紙による練成P20

*15:1955年8月4日中国新聞にその記事があるようなのですが、ちょっと発見できませんでした

*16:結局禎子がどれぐらい千羽鶴を折ったのかは諸説あるのですが、恐らく千羽以上は折ったのだろうというのが有力です。本によっては「643羽」で力尽きたみたいな書かれかたをしていますが、これは同級生の作文に書かれていた見舞いに行ったときの数が混同され、彼女の死に悲劇性を持たせるために創作されたものと推察されます

*17:エレノア・コアの『Sadako and the Thousand Paper Cranes』が有名。

Sadako and the Thousand Paper Cranes - Wikipedia, the free encyclopedia

*18:『折り鶴の子どもたち』那須正幹(PHP研究所)1984 P276

この本は一応児童向けの体裁をとっていますが、綿密な取材を重ねた後があり、そして何より、「佐々木禎子」をめぐる話を、一番冷静に記述していると思います。ただただ禎子の冥福を祈ろうとしただけの子どもたちが、様々な思惑によって翻弄されていく姿が、この「原爆の子の像」建立の功罪をよく描けています。『ズッコケ三人組』の印象しかないのですが、こういうものも書けるんですね。

*19:中学校の副読本の教材にあるんだとか。

https://twitter.com/yujidon/status/578082866489212928

これによれば「かがやけ未来」学校図書にも教材として載っているようです。

http://www.syobara-tojo-e.hiroshima-c.ed.jp/download/HomePageH24727/H27/nenkankeikaku/dotoku/5nendotoku.pdf

*20:例えば平和教育という観点から行けば、千羽鶴を慰霊碑に供える活動を広島の学校は続けている。北陽中学校は1975年からずっと続けているそうです。

『高校の平和教育 続「ひろしま」から学ぶ』広島県高等学校平和教育推進より