実はこの記事は11月21日から書き始めているのですが、資料を読み込んで落とし込んでいく作業がかなり大変で、既に「ヌーハラ」という言葉は時代遅れになってしまったようですが、そういう「ヌーハラ」の話です。
「ヌーハラ」という言葉でもって、「めんをすする」という日本の食文化に嫌悪を示す外国人が多いのではないか、みたいな論争ですね。圧倒的に、「めんをすするのは日本の文化だ!」というような意見が多いように思います。
しかし、私が少々疑問に思っているのは、果たして「めんをすする」のは「文化」なのか?というところです。多くの賛同者が引き合いに出すのが、江戸のそば文化ですが、果たしてその「江戸」は現実のものなのか、それとも現代に作り出された虚構のものなのか、というところを、今回はケッコウ文献にあたったので、長々と書きたいと思います。面倒な人はまとめだけ読んでください。
「ヌーハラ」はまったく流行っていない
さて、既に指摘されていることですが、「ヌーハラ」という造語は、別に海外で流行っているわけでも日本で流行っていたわけでもありません。
Googleトレンドを見てみましょう。
10月18日まで、全く検索に動きがないのがわかります。「Noodle Harassment」と、英語と比較しても、動き方は一緒です。
あえてツイートそのもののリンクは貼りませんが(アカウント削除済みですし)、以下のようなことばが騒動の発端だといわれています。
世界が激怒する日本の”ヌーハラ”1
ヌーハラとは”ヌードル・ハラスメント”のことで、世界から日本に来た外国人が日本人が”ズズーズ”と麺をすするのを聞いて、精神的苦痛を感じることです。
今まで製麺業界の圧力で隠匿されてきたヌーハラを暴きます。
とある香ばしい方のツイートで、投稿されたのは10月19日。トレンドとも一致しますね。このあといくつも「ヌーハラ」に対するツイートをしているのですが、まず一つ拡散するきっかけになったのが、10月24日の記事。
GetNaviというメディアが取り上げた情報を、毎日がそのまま掲載しているので、まずはここが拡散のひとつの布石になったのでしょう。
で、11月14日フジテレビの「ユアタイム~あなたの時間~」で取り上げられ、
市川紗椰 ヌーハラに対し「私は絶対すする」と宣言 ネット上「正しい」と称賛 (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
16日の「とくダネ!」でも話題になり、
ホットワードと化したのかな、という感じです。
番組は、「海外の人が言っている」という体での進行でしたが、「ヌーハラ」という言葉自体は、日本の一個人のひとつの垂れ流した言葉であるわけです。私個人としては、ろくに事実関係を調べないで「こういうのが流行ってるんですぅ」と垂れ流し、見えない敵と戦うメディアは平常運転だなあと思うわけです。
伝統はいつから生まれたのか
とは言っても、「めんをすする文化」のない人々にとって、日本の「めんを音をたてて食べる」という現象は、奇異に映るんでしょう。ここでよく言われるのが、「日本のめんをすする文化は日本の伝統だ!」みたいな発言です。
この「伝統」でよく引き合いに出されるのが、江戸時代のそばの話です。「ちょっとだけ汁につけて、一気にすする」というのが粋な食べ方だという話です*1。
たとえば、「江戸時代」に「職人たちがそばをフウフウ冷ましつつすする様子がかっこいいと、一般の人にも広がった」*2とか、神田藪そばの社長は「江戸時代」に「自然に出てきた」もので、当時はそばを「長くつなげる技術を競いあった」そうで、それを食べるための「粋な食べ方として定着」したんだとか*3、竹やぶのご主人も「江戸前」を「趣味としてのそば」と定義し、当時は「食事の合間に軽く食べるのが粋とされ、一枚の量も少なく盛る」と話しています*4。「伝統」の話で一貫して出てくるのが、「江戸時代」の「江戸っ子」の「粋」な食べ方として定着してきた、というような話です。とくダネの小倉さんの発言なんかも、こういうことを念頭においているのかもしれませんね。
しかしながら、そばの食べ方が「江戸っ子」の「粋」であるという話はゴマンと出てくるのですが、どの話も出典を明示していないんですね。『○○』という洒落本に「そばを勢いよくすするのが江戸っ子の粋とされ…」とか出てくれば終わりなんですが、うーん、そうでもなさそうなんですな。
というわけで次項から、江戸の「そば」の歴史及び「江戸っ子」の概念の成立について、各種研究を引用しながら、「めんをすする文化」が、日本においてどのように成立していったのかを考えていきたいと思います。
そばの歴史について
「麺」というのは江戸期より前においては小麦粉を指したり、小麦粉と米粉を指したり、いろいろですので*5、いわゆる長く延ばしたアレを「めん」とひらがなでここでは書き表します。
日本の「めん」についての歴史を紐解くとかなり複雑なんですが、すごーく簡単に書くと、時代順に「索餅」という小麦菓子、手延べした「そうめん」→「うどん」の派生、包丁切りの「そば」の登場という感じです。これは、公家や朝廷文化の小麦製品が、庶民文化にまで浸透していくという流れでもあります。
伊藤 1987 資料4を改変
「めん」という形で日本に親しまれたのは、そうめん→うどん→そば、という順番になるのでしょうが(同時並行的ではありますが)、これの年代把握が結構難しい。そうめんについては、奥村彪生によれば、製造技術は1200年代に京都に伝わり*6、製法の確立は江戸中期ごろではないかということ。うどんは、その名が記録として登場するのは南北朝時代の『嘉元記*7』で、1352年。奥村は、『蔭涼軒日録』などから、室町時代には京都の寺院や公家で日常的にうどんが食べられていたと推察しています*8。ただし、諸説はあります。
さて、問題のそばですが、「そば」自体は、そばがきやそば団子として鎌倉時代より食べられていたのではないかといわれていますが*9、「めん」として延びた形のものは、今までのものと区別するために「そば切」と江戸時代には呼ばれました。ただ、「そば切」の形状のそばが登場するのは諸説あり、奥村は『山科家礼記』(文明12年(1480))の「そは一いかき」の記述が、「いかき」がざるを表すことからそば切と判断し、室町初期からではないかと記しています*10。飯野亮一は天正二年(1574)の『定勝寺文書』に初めて「そば切り」の名が出ることから、信長時代の幕開けの頃ではないかと推察しています*11。
吉宗の頃の享保年間(1716-1736)にはまだうどん屋が優勢の時代で、うどんを売る傍らでそば切が売られていたということです*12。しかし、その間に屋台売りの「夜そば売」や藪そばなどの名店が生まれ、江戸はうどんの町からそばの町に変わっていきます。飯野は、そばが江戸の町民に親しまれた理由を、
・蕎麦の産地に恵まれた
・ニ八そばが生まれてそばの値段が安定した
・夜そば売りの数が増えてそばが江戸市民に馴染やすい食べものになった
・そばに合ったそば汁が生まれた
・そばのすっきりした味や粋な感じが江戸っ子の気質にマッチした
・高級店が増え、上流階級も取り込んだ
というように列挙しています*13。はっきりとわかる数字では、文化八年(1811)には、「食類商売人」の調査で「饂飩屋蕎麦切屋」の数は718軒と報告されています。総数が7604件なので、およそ1割となかなか多いです*14。化政期がそばの全盛期といったところなのかもしれません。
そばの食べ方について
先述したように、「そばの食べ方」についての江戸時代の文献はほぼないと言っていいです。辛うじて存在しているのが、「ぶっかけ」という熱い汁をかけた食べ方に関するものです。藤村和夫は、日新舎友蕎子が江戸時代中期に著した『蕎麦全書』の解注のなかで*15、元禄時代の『女重宝記』の記述をあげています。
索麺くふ事 汁をおきながら一はし二箸さうめんを椀よりすくひ入て、さて汁をとりあげくふべし。そののゝちは汁を手にもちすくひ入、とり上くふべし。温飩もくひやう同じ事也。蕎麦切りなど男のやうに、汁をかけくふ事有るべからず。索麺のごとくくふべし*16
要するに、汁をかけて食べる食べ方は「女性にとっては」無作法だということです。汁に都度つけて食べるのはよさそうですが、音を立ててすするかどうかまでは書いていません。
岩崎信也は『江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?』(光文社新書・2007)という、ズバリな本の中で、同じように「「そばの粋な食べ方」について細かく言及している文献は見当たらない」としながらも、そばを少量ずつ食べるという「間食い」の文化に注目して、それが資料的に明示される明和から化政期(1804-30)にかけて、江戸っ子の「粋」と結びついてそばの食べ方という「型」ができたのではないか、としています*17。
先にあげた奥村は、膨大な資料でもって麺類の歴史を紐解いたにも関わらず、こと食べ方に関しては、
江戸っ子と呼ばれる粋を求める人達には、この辛汁をゆでて冷し洗ったそば切の先にちょいと付け、一気にすすった。(中略)その粋の文化が伝統として昭和の戦前まであった。*18
と書いているものの、全く資料を明示していません。あまりにも自明のこととして、いちいち資料を指し示すまでもないのでしょうか。
「江戸っ子」の成立
少し話を変えて、「そばの食べ方」とつながる「江戸っ子」についてです。
「江戸っ子」というと、「宵越しの金は持たない」とか「喧嘩っ早い」みたいな「イメージ」が先行してありますが、果たしてそのイメージはどこまで正確だったんでしょうか。
「江戸っ子」の研究として史料的にも正確なのは西山松之助の『江戸ッ子』(吉川弘文館・1980)でしょう。西山は、「江戸っ子」の気質を次の5つに分類しています。
1.おひざもとの生まれ
2.金ばなれがよい
3.高級な育ち
4.生粋江戸っ子の生え抜き
5.「いき」と「はり」を本領
これまでは、「江戸っ子」は低階層の町民だけが形成していたという蔑視的な史観が大勢でしたが*19、西山はそういった「自称江戸っ子」と、大町人の「江戸っ子」が、実際には重層的に存在していたとしています。本来の有力な町人として豊沃な文化を築いてきた「江戸っ子」は寛政の改革で断絶され、その表層をなでる「自称江戸っ子」がそれ以降に登場してきたと西山は語り、この重層性が「江戸っ子」のイメージの乖離につながってきたということです。また、その重層性には、地方の人がたくさん江戸にいて、江戸に染まらず地方色を出していたことから、江戸定住者としての「江戸っ子」を際立たせたとも述べています*20。
西山によれば、「江戸っ子」の言葉の初出は1771年(明和8年)の川柳「江戸ッ子のわらんじをはくらんがしさ」であり、それ以降、文献にあらわれるのは全部で51点だということです。西山は山東京伝の洒落本『通言総籬』が「江戸っ子」の概念の中核になったものとしており、最盛期を迎えたのは寛政の改革以後のいわゆる化政文化(1804-1830)のころということになるんでしょうか。
「遊び」としての文化
とすると、岩崎の言うように、同じく化政期にその質が高められたそばは、江戸っ子の「粋」と合致して、食べ方自体も、その発展と共に工夫されていったという事なんでしょうか。原田信男は、宝暦ー天明期(1781-1789)には、遊里での振舞いに関係した「粋」という概念が拡大し、「食」の世界でも使われるようになったとしています*21。原田は、食に対する「粋」の現象は「この時期の料理文化がきわめて観念的なもので、味覚よりも時代の雰囲気に流されたもの」であるとしています。
料理文化が興盛を極めた化政期には、大食い大会やら酒飲み競争のようなイベントが流行したそうです*22。よって、全く資料がないのが気になりますが、「そば切の先にちょいと付け、一気にすす」るような食べ方は、この頃の「粋」として流行ったものではないか、という推測ができます。料理の味わいのためではなく、江戸っ子たちの、見てくれの「粋」の姿として、そばの食べ方が生まれたというわけです。
局地的な食文化
しかしながら、これは日本の文化というよりは、江戸の文化というものです。百万都市だった江戸を局地的というのは憚られますが、地方ではこういう「一気にすす」る食べ方は奇異に映ったようで、明治中期の文献に、長野あたりの田舎から来た人が、東京のそば屋に入って、その音のすさまじさを「夕立」と表現しています*23。そばをすする音を「夕立」と評するのはなかなか面白いと思いますが、明治の時代でも、こういう「一気にすす」る食べ方は、全国的にされていたというわけではないということでしょう。
興味深いのが、藤村和夫が『そば屋の旦那衆むかし語り』(ハート出版・2000)という、インタビュー集の中で、あるそば屋の店主が、「明治時代のそばの話」という題目として、「ツユは少しつけた方が良いか、たっぷりつけた方が良いか」という聴衆の質問をとりあげていることです*24。店主は「ツユをたっぷりつけて食いたい」と死に際に言ったそばの通人の落語の話をして「落語家に聞いてください」と笑いを誘ったそうですが、これを「明治時代の風習とか風俗」として話されたことがポイントだと私は思います。店主がそれをどこまで自覚的に捉えたかがわかりませんが、この食べ方を彼は「殊更に通人ぶった食べ方」と捉えており、明治期においてもそれが正しい食べ方かどうかというところで揺れていたようにも見えます。
岩崎は『守貞謾稿』(1837年)の「3763軒」というそば屋の数が、明治39年に600軒という数に低下していることから、そば文化が明治維新後の欧化政策によって打撃を受けたという旨を書いていますが*25、飯野は『守貞謾稿』の「3763軒」という数自体が誤りであろうとしています*26。これは、幕府が飲食店の新規開店を認めず、かつ減らす方策をとった禁令などから推測されたことで、私もこちらが正しいだろうと考えます。飯野は、そば屋の数は幕末には700軒程度だっただろうと推察しており、要するに、明治期にいたるまで江戸ー東京のそば屋の数はそれほど変わらず、江戸ー東京にそば文化が根付いていたということです*27。それは、「粋」としてのそばの食べ方も同様でしょう。
この江戸でのそば文化が、明治以降の運輸の発達や情報の広がりでもって、全国に広まり、局所的であったそばの食べ方も、あわせて広まることになったのではないでしょうか。これには、よく言われる、江戸落語の「時そば」に代表されるような、ラジオでの普及なども一役買ったのではないかと思われます。
音をたててはいけない文化
『ヌードルの文化史』(柏書房・2011)を著したクリストフ・ナイハードは、そばの食べ方についてこう記しています。
ごつくて江戸にぴったりの蕎麦は、男の料理と考えられていた。だから音をたててすすって食べる。別の説によると、忙しい江戸っ子は熱い蕎麦を大急ぎで食べたから音をたててすする習慣がついたという。ただしこれらの説はうどんをすする理由にはならない。*28
ナイハードが書くように、そばをすする理由は色々と説があっても、うどんなどの他の麺類も、我々日本人はすすって食べているのであり、「めんをすする文化」の理由にはならないということです。
よく話題に上がるのが、フロイスの書いた『ヨーロッパ文化と日本文化』の記述でしょう。これは、日本に来た宣教師ルイス・フロイスが1585年に著したもので、フロイスが日本の様々な文化について短く記したものです。その中で、日本人の食べ方についてこう記載されています。
われわれの間では口で大きな音を立てて食事をしたり、葡萄酒を一滴も残さず飲みほしたりすることは卑しい振舞とされている。日本人たちの間ではそのどちらのことも礼儀正しいことだと思われている。*29
これを、「フロイスが、日本では麺を音をたてて食べると記している」と言う人もいますが*30、フロイスは麺と限定しているわけではなく、これは誤りです。訳者の岡田章雄は、その音は「ものを噛みくだく音か舌鼓をうつこと」だろうと注釈しています。クチャラーというやつですね。
しかし、フロイスは、音を立てることを「礼儀正しい」こととしていますが、少なくとも江戸時代ぐらいには、既に音を立てて食べることについては「無作法」という認識があったようです。
熊倉功夫は『文化としてのマナー』の中で、『士道』では、「舌うちを高く仕り、すふ音遠くきこゆる」は「皆小人のわざ也」として、作法を心得た人間のすることではないと引用しています。貝原益軒の『三礼口訣』にも「口音高く長くすることなかれ。凡舌打ちして食ふ事なかれ」とあり、音を立てて食事をすることは、少なくとも「儀礼的な食事では音の規制が厳しく、一般の庶民的な食事では必ずしもタブーでなかった」のではないかと、熊倉は推察しています*31。日本人の意識として、音を立てることはあまり作法に適ったことではない、というものは根底にあったのではないでしょうか。
マナーは文化足りうるか
音を立てて食事をすることについては西欧化が進んだ明治以降も問題になっていて、「外人の見たる日本紳士の不作法」というタイトルで、外国人の日本人の不作法な振る舞いについて、食事の面についても述べています。
日本紳士の内には食事の時に口を開けながら食べる人が頗る多く、音をたてることは勿論必ず口を閉ぢたままで食なければ行けない*32
このようなことから、一般的に、「音を立てて食べる」ことが不作法という認識になっていくのは、明治時代以降の欧化政策によるものだという論調もありますが*33、そもそも「音を立てて食べる」ことが、食事の作法として適していないという感覚は、日本人の根底に古くからあるんじゃないんでしょうか。だから、「ヌーハラ」がこれほどまで議論になるのではないでしょうか。
ここが本論の推測的な結論になるのですが、だからこそ、「そばをすする」という行為が、江戸時代に「粋」として局所的に成立していったのは、そういった体制的な作法というものへのアンチテーゼもあったのではないでしょうか。西山のいうように、「江戸っ子」が町人文化として、武士への対立構造であるとするなら*34、そのような権威への否定として見るというのは、少々穿ちすぎでしょうかね。しかし、「食事作法」に対して、江戸っ子が(自称にしろなんにしろ)それと反対の行動をとって「粋」とした、というのは、考えられないことではないかなあと思うわけです。
しかし、何度も書いている通り、この、「めんをすする文化」というより、「めんはすすって音を立てなければならない文化」というのは、江戸後期のしかも局所的に発生した現象です。江戸っ子の「粋」が、江戸に住んでいた人々すべてに広がっていたわけでもないですし、これを日本から古くある文化と捉えるのは難しくないでしょうか。
むしろ、日本に今まであったのは、食べる時に「音を立てても構わない」という習慣のほうではないでしょうか。公的な場では不作法と捉えられていたようですし、私的な食事の場においても、積極的に「音を立てて」食べていたとは思えません。ナイハードが指摘したように、そばだけでなく、「うどん」もすする理由は、江戸時代云々の理由ではなく、箸の使用や低い卓などの外的理由から、積極的ではなくそうせざるをえなかったというところなんではないでしょうか。音をわざと立てて食べるのではなく、結果としてそうなってしまったという。
「音を立てなければならない」と「音を立てても構わない」はやはり違います。私は、個人的には、「食文化」というものは、義務的なものを指すのではないかと思います。それは、西欧でのナイフとフォークの細かい使い方とか、インドで左手を使ってはいけないとか、そういう「ねばならない」文化であり、「しても構いませんよ」的行為は習慣のようなものであり、明確な意味で「文化」として定義してもいいのかなあと考えてしまいます。
今日のまとめ
①現在の「そば」の形が成立し、最も盛んになったのは江戸時代後期のころである。
②「江戸っ子」の「粋」の文化が食の分野に広がり興盛したのも、同じく江戸後期である。
③そばの食べ方についての史料は限りなく少ないが、上記①②の時期に、「江戸っ子」の「粋」として、そばを「一気にすする」形になったのではないだろうか。
④江戸後期に成立したそばの食べ方は、江戸の局所的な文化であり、地方に広まっていったのは、明治以降の、流通や情報の広まりの結果と思われる。
⑤古くから日本では食べる時に「音を立てる」習慣があったが、公的には不作法という認識があった。そば以前、めんを食べる時にも、積極的に音を立てて食べていたわけではないと考えられる。
⑥③のような江戸っ子の行為は、そういった作法というそのものへの反発としての「粋」という側面があったのではないかと考える。
私は歴史学者ではなく、むしろ疎いほうなので、認識に誤りがあればどしどし指摘いただければと思うのですが、少なくとも、「そばは音を立てて食べるもんだ」というものが江戸時代から続いているんだという言説に関しては、史料的には懐疑的にならざるをえないということです。調べ切れませんでしたので妄想ですが、明治の江戸時代の懐古主義的な風潮になった際に、どこかの誰かがとり上げたなんていうことも考えられそうです。「江戸しぐさ」とまでは言いませんが、もうちょっと確固たる史料をどなたかに見つけていただきたいものです。
少し話が変わりますが、「ニ八蕎麦」という言葉があります。これには「2×8」の16文という値段説と、小麦粉とそばの配合割合の大きく2つの説があります。実は現代でも決着がついていないようなんですが、江戸の当時においても、この説は両論出てきます。飯野は値段説をとっているのですが、『江戸愚俗徒然草』などを例にとり、幕末期には原料配合説が唱えられ始め、「ニ八」の起源に当時から揺らぎがあったとしています*35。
何が言いたいかというと、百年もたたないうちに、江戸の時代においても、言葉のゆらぎが出てきてしまっているということです。ならば、そばの食べ方についても、そこまで確固たるものがあったのかあと疑問に思うわけです。文化という言葉はなかなか便利で使い勝手のよいものですが、あまり江戸という仮想現実に期待しすぎないほうがいいんじゃないかというところで、今回のとても長くなってしまった(1万字を超えました)話を終わりにしたいと思います。
*1:粋でカッコイイ蕎麦(そば)の食べ方とか、よくネット上で散見されます。
きっともっと古いものがあると思うんですが、書籍的に発見できた一番古い例は1935年の『生活百科大観』(雨森兼次郎)です。
箸に掬ひ上げ、僅かに汁をつけて、啜りこむのが、いちばんうまい食べ方である。(p47)
*2:AERA2012年10月22日 四国B級ご当地グルメ連携協議会常任顧問奥山忠政のコメント
*3:朝日2001年5月27日 神田藪そば社長堀田康彦のコメント
*4:『そば「竹やぶ」名人の真髄』阿部孝雄(プレジデント社)P24
*5:『つるつる物語』伊藤汎(築地書館)1987 まえがきより
*6:『日本めん食文化の一三〇〇年』(農文協)2009年 P147
*8:奥村 2009 P238
*9:奥村 2009 P400
ただし飯野は室町時代からとしている(飯野 2016 P19)
*10:奥村 2009 P238
しかし伊藤はこの記述を「そばかき」のことではないかとしています((伊藤 1987 P133
*11:飯野 2016 P19
ただし飯野の発見ではなく、平成4年に長野市の郷土史家の関保男の発見です
*12:飯野 2016 P46
*13:飯野 2016 P108
*14:飯野 2016 P116
*15:現代語訳「蕎麦全書」伝 藤村 2006
*16:国立国会図書館デジタルコレクション - 女重宝記 5巻. [2] 13コマ まあ、私もくずし字が読めるわけでもないですけど…
*17:岩崎 2007 P261-262
*18:奥村 2009 P471
*19:三田村鳶魚がその原因だろうと西山は述べています。
*20:『江戸文化誌』岩波書店1987 P182
*21:『江戸文化の見方』角川選書 2010 P169
*22:原田 2010 P171
*23:というメモが手元に残っているのですが、どうも書名を控え忘れて、いったいなんだったか忘れてしまいました…思い出したら追記します。
*24:藤村 2000 P157
*25:岩崎 2007 P341-350
*26:飯野 2016 P115-116
*27:明治38年の『各種商店主人店員苦心談』(原田東風)には次の記載があり、そば屋がかなり東京にて多かったことがうかがえます
一寸飲食店で多いのは、先づ牛肉店と蕎麦店でしょうねえ(中略)牛肉店よりも蕎麦店の方がずつと多う御座います。少なく見積もっても、一区に先づ百軒位はあるでしよう
*28:ナイハード 2011 P269
*29:『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス 岩波文庫 P102-103
*30:例えばAERA 2008.2.11
「麺はアジアの食文化ですが、音を立ててたべるのは日本人だけです。織田信長に会ったルイス・フロイス宣教師は、日本人が音を立てて麺をすすっていたと記録していますから、日本固有の『文化』と言っていいかもしれません」
ただ、素麺と思しきものについても記載があり、麺類の食べ方も、「冷たい水に漬け」とあります。しかし岡田は「素麺」としていますが、時代的にはうどんの可能性もないのかなあと個人的には思います
*31:『文化としてのマナー』熊倉功夫(岩波書店・1999)P26-27
*32:朝日1912/6/23 P5
*33:たとえばこんな回答。
「音を立てるのは下品」というのは明治時代以降、西洋(英仏米などなど)の文化(マナー)を日本古来のそれより「高尚な」ものとして受容してきた「欧化主義」の表れでしょう。
蕎麦を音を立てて啜ることの正当性を教えて下さい。なぜ音を立てて良いのか? ... - Yahoo!知恵袋
*34:対立かどうかというのは、意見が分かれるところかもしれませんが、表裏ぐらいの存在ではあるでしょう。九州大学の中野三敏教授は、朝日新聞の取材(1986/12/23 P7 夕刊)で、江戸っ子は「都会人というだけのこと」として、それは「武士願望への裏返し」だとしています
*35:飯野 2016 P91