どれだけノーマライズされたことかはわかりませんが、人間生きていく中で、詩にはまる瞬間というのがあると思うのです。特に「中二病」と名づけられるような、多感な少年・少女時代に。
私がはまった詩人は、田村隆一と谷川俊太郎。特に本日は、田村隆一の言葉がどれだけ中二心をくすぐるかという話をしたいと思います。
私がはじめに出会ったのは『帰途』という詩の一節です。この詩はこう始まります。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
えー、詩人がそれを言っちゃうか!ウィトゲンシュタインの「語りえぬ…」以来の衝撃だよこれは、とはさすがに当時は思いませんでしたが、盗んだバイクで走りたくなる中学生の反世界的な心をくすぐるキャッチーな言葉でした。
さて、次の連ではこう続きます。
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
中学生なんて「わかったふり」の天才ですから、もうこのカッコイイフレーズを聞いただけで、「いやそうだよね、無関係だよね!」とウンウンうなずいちゃいます。
というわけで、私は田村隆一の詩を漁り始めることになります。
しかし、詩集というのは存外高いもので、ぺらっぺらの一冊が1200円ぐらいしました。そして読み始めるとわかるのですが、キャッチーな詩もあれば、「正直よくわからん」という詩も混ざっているので、なんとなーく損した気分になったことも覚えています。
だからこそ、ビビっとくる詩に出会えたときの感激はなかなか大きい。
「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまったが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じゃないか
もう中学生って、殺すとか死ぬとかそういう言葉にゾクゾクしちゃいますから、「やべえよ天使殺しちゃったよ」と、びくんびくんしちゃいます。そうすると、『四千の日と夜』なんて詩もいい。
一篇の詩が生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
そうだよそうだよ、殺して死者を甦らすんだよ、ごめんよお母さん、とか思いながら密やかな詩人になる決意をするわけです。
今になれば、田村隆一が創り上げた現代詩の枠組みの拡充とか、その思想性というところも理解はできるのですが、当時はただただその言葉の力に圧倒されました。そして多分、それはそれでよかったのだと思います。教科書に載っているような詩ではない、その言葉の命令形、そして言葉が持つ暴力性、それは評論を読んで理解することではなく、詩の言葉を身体で感じることだったと思いますから。詩というものは、こんなにも身体的な表現方法だったのかというのを、子どものころに会得できたのは大きかったと思います。
最後は、私が一番好きな『木』という詩を載せて終わります。
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
ほんとうにそうかほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない
若木
老樹
ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光のなかで
目ざめている木はない
木
ぼくはきみのことが大好きだ