たまごっち、という響きから、私はそんなに昔のにおいを感じないのですが、あれからもう二十年も経ってるんですね。今日は当時のブームの話。
《たまごっちは危険きわまりないおもちゃ》
— 三条友美 (@tomomisanjo) 2017年5月24日
私たちはどうしても肩書きにはつい騙されてしまう。一流大学の名誉教授という肩書で、一流誌で社説を書いてたりするとつい信じてしまう。当時は騙されたかもしれないが、10年、20年たつと、こいつバカだったかというのがはっきりとわかってくる。 pic.twitter.com/EHHyYOIMPD
当時の京都大学の教授が、たまごっちが「現実と仮想がないまぜになる」として、ブームだった1997年に書いていたことに対する批判です。
かなりのリツイートがついていますが、私がやはり気になるのは、この文章の出典をきちんとあたった人がいるのか、というところです。今日はそんなところをつらつら記事にします。
内容はサカキバラ少年に対するもの
今回の発言の出典を、ツイート主さんは「読売新聞」「1997年」としており、書いた人物を「大島清 京都大学名誉教授」と記しています。画像の文章を起こしましょう。
今年は「たまごっち」と呼ばれるゲームが大流行した。
このゲームでも、リセットボタンを押すとペットが死んでしまう。
現実の死とゲームの中での死を区別する感覚が失われていくと、現実と仮想がないまぜになる
バーチャル・リアリティーの世界にはまり込んでしまう。
そうなると、人間を無機的に扱ってしまう恐れが出てくる。
というわけで、読売新聞の過去記事にあたるとすぐに出てきます。1997年7月30日の東京朝刊。「寄稿」扱いで、タイトルは『少年犯罪「心の病理」』。あれ、たまごっちの話じゃないの?
1997年というと神戸の小学生殺害事件が思い出されますが、まさしく大島教授は、神戸の事件に対する論考の中で、たまごっちを引き合いに出している、というわけなので、たまごっち批判だけの記事、というわけでもありません。
微妙に改ざんされる引用
実は、ツイート主さんの画像の引用は、微妙に改ざんされています。本当は記事全部を引用すればいいのですが、少々長いので、該当箇所と周辺だけ。
大島教授は、「大脳生理学」的に、サカキバラ少年の犯行は「脳のトラウマ」に起因するとしています。教授は、別の犯罪心理学者の「広い意味での精神障害の患者」という言葉に同意し、彼がネコを惨殺した際の言葉から、彼が、人間にとって大切な「生き物感覚」が欠けているのではないか、と推察しています。「生き物感覚」は、触覚や嗅覚と言った五感すべてをつかった感覚を指し、「視覚や聴覚の世界だけに閉じこもると」、その感覚は育ちにくくなり、大脳は「ロボット化」し、情緒が失われる、とのこと*1。で、そのあとにこう続きます。
この少年は、明らかに情緒が欠落していると言えるが、なぜそうなったのか。少年がホラービデオを多数所有していたことは注目すべき事実だ。ホラービデオの世界では、あらゆる残虐な行為が繰り返し出てくる。それが視覚と聴覚だけを刺激するため、肝心な現実感覚が失われていく。
こうした現象を引き起こすのはホラービデオだけとは限らない。例えば、今年は「たまごっち」と呼ばれるゲームが大流行した。このゲームでも、リセットボタンを押すとペットが死んでしまう。現実感覚が正常に働けば問題はないが、現実の死とゲームの中での死を区別する感覚が失われていくと、現実と仮想がないまぜになる「バーチャル・リアリティー」(仮想現実)の世界にはまり込んでしまう。そうなると、人間を無機的に扱ってしまう恐れが出てくる。
大島教授は続けて、サカキバラ少年の家庭環境や学校の対応の遅れなどを批判し、「少年の周囲にいた大人たちの責任は、あまりに大きい」としめくくっています。
さて、太字にしましたが、今回流行っているツイートには、なぜか「現実感覚が正常に働けば問題はないが」の部分がまるっと抜けています。意図的か誤りかはわかりませんが、意図的であるならば、少々偏向的な引用です*2。
ゲーム嫌いの大島教授
この論稿に先立ち、実は大島教授は「仮想現実ゲーム」の批判をしています。1997年4月1日の読売の記事で、神戸の事件よりも前になります。
大島教授は、若者がゲームに浸る様子を「人間関係の煩わしさから逃避できるのだろう」として、やはり「生き物感覚」が育たないという話をくり返しています。で、こういった仮想現実ゲームは「情緒を殺していく」から「利点は考えられない」と、ばっさり切っています*3。
当時で御歳70の御仁ですので、まあそういう認識になるのは仕方がない部分もあるとは思いますが、2007年のインタビューでも自然ふれあい第一主義は変わっていないようです。
大島 テレビやゲームという仮想の世界だけで、人と群れるのを避け、自分で感じることなく、汗を流すこともなく、受け身であっては、原風景そのものが育ちません。
ここにはあえて載せませんが、大島教授の著書を拝見すると、まあ、なんというか、「脳」がついてりゃなんでもいいんか、というような内容であり、脳科学界においてはどのような立場の人なのかが少々気になります。ただ、たまごっち以前の著書から、自宅での「自然分娩」や自然と触れ合い「情緒」を育てる子育てについて主張をしているようなので*4、ゲームはよくない、という論調になるのは彼にとっては自然なことなんでしょう。
当時のたまごっちへの反応
では、当時の「たまごっち」に対してはどういう反応があったかと言うと、当然、大島教授のような、「リセット」に対しての批判的な論調はいくつもあります。
ところで当方は昨年、長男が誕生したばかり。ギャーギャー泣かれるたびに、子育ての大変さを実感しているが、「思い通りに育たない」といって、リセットボタンで終了させるわけにはいかない。
デジタル世代が将来、子供や本物のペットを育てる時、途中で「もう、面倒」と投げ出しはしないか。そんな、いらぬ心配をしながら、子育て奮闘中だ。
読売1997年1月27日 大阪夕刊
大阪大教授(当時)の鷲田清一も寄稿していました。
ところが、思うようにいかないとき、途中で人生(?)を一からやりなおす手が一つだけある。リセット・ボタンを押すのである。するとスタートラインに戻ることができる。
(中略)
リセット・ボタンはその偶然を、所有者の恣意に変える。かけがえのない関係のなかを流れているどうしようもない時間の澱、時間の、もだえを解除し、それを操作可能な時間に変えようとする。
読売1997年4月9日 東京夕刊
恐らくその中で大きく取り上げられたのは、滋賀県の教育委員会教育長の答弁でしょう。1997年3月6日滋賀県議会でのの梅村議員とのやりとり。
梅村 (中略)育てるということに人気が集まっているそうですが、液晶画面上の生死に痛みや苦労は感じません。こちらの気分次第で何度でも生と死を与えられるという気楽さ、手軽さから、感受性の強い年代の子供たちにどのように影響するのか、またしているのか心配であります。学校への所持についてはどのように指導されているのか、そして教育長はこのような社会現象をどのように見ておられるのか、御所見を伺います。
これに対して教育長が答えます。
生き物を実際に育てるのではなく、ボタン一つで生き返らせることも死なせることも簡単にできるゲームに熱中する子供の姿を見るにつけ、生きとし生けるものの命を感じる温かい心を失うのではないかというように危惧いたしております。
バンダイ広報部はけっこうこの問題について真剣に対応していて、
「かわいいペットが病気にならないよう育て、長生きさせるための品物であって、リセットは『殺す』という意味ではない。大変な誤解で、相手を倒すためのバトルゲームとは趣旨が全く違う。誤解を解くためなら、議会でも教育委員会でも説明に行きたい」
読売1997年3月7日 大阪朝刊
と述べています。でもまあ、「リセット」と「死」の関係が誤解だというのは苦しい気もしますが*5。
他にも、「「現実は重い」という感覚が、ある種の人たちを自由に動けなくしている」(朝日1997年2月26日)という「リセット」感覚と現実の安易な対比の批判や、「あからさまな母子固着の戯画」(朝日1997年4月26日)といった読み取りまで、まあ百家争鳴と言った感じです。
当時の青少年たちの反応も色々です。読売の中学生記者は、「ホラー映画やテレビ番組の暴力シーンは子供に影響あるか」という質問にこう答えています。
C ゲームやたまごっちの影響も大きいと思う。たまごっちは手をかけなければ死んじゃうでしょ。育てるのに飽きたら、今度はだれが一番早く殺せるか競うようになった。「どうやったら早く死ぬか」を平気で話し合ってる。いくらゲームでも、そんなことを続けていると「殺す」ことを普通の感覚で受けとめる子が出てくると思う。
読売 1997年7月14日 東京夕刊
という子もいれば、
E 私の意見は違う。「殺人計画」を頭の中で楽しんでいる時、たまたま殺しの漫画が置いてあれば「まねてみよう」というきっかけになるかも知れないが、いつまでも影響し続けるかな。ホラー映画や過激な漫画を見た人全員が人殺しをするわけじゃないんだから。
前掲
という意見の子どももいます。
他の投書においても、「ゲームは別物、違いを知ろう」ということで、
私は高校生だが、わざと殺したりせず、きちんと育てている。寿命で死ぬときはさびしいが、それで本当の生き物の死に面したときの気持ちに近づけると思ったら大間違いだ。それはあくまで電池で生きている物。殺しても本物に対する愛情は無くならない。かえって、ゲームに感情移入しすぎる方が怖いと思う。生き物はあんなに簡単に世話できないし、あんなにあっけなく死んだりしない。
朝日 1997年2月25日 朝刊
と、なかなかしっかり書いています。
要するに、ツイート主さんが言うように「10年、20年」経たなくても、当時からみんないろいろ考えて喧々諤々していたということです*6。
今日のまとめ
①今回のツイートの引用は読売の1997年7月30日の寄稿で、神戸の殺傷事件に対する内容のものだった。
②ツイートの引用では「現実感覚が正常に働けば問題はないが」という一文が抜けており、故意であれば恣意的な引用である。
③大島教授はかねてから自然回帰的な主張が多く、たまごっちに関する意見は彼の今までの考え通りとも言える。
④たまごっちの「リセット」問題は当時から意見が割れており、大島教授のような意見を皆が信じていたわけでもない。
私個人の意見としては、当該ツイートの返信の中にあったように、「デジタル」黎明期のような時代の考えを、「現代」の我々が批判するのは後出しじゃんけんのようで不公平な感じがします。この教授が一面でしか物事を見ていないように、ツイートの「引用」という限られた枠の中だけで論じる我々もまた、さほど違いがないように思います。
それにしても、久しぶりにたまごっちブームの記事を読み漁りながら思い出していたのですが、何かに似ているなあと考えていたら、ポケモンGOのブームと似ているな、と気づきました。強盗やら売春してまで手に入れるやらといった犯罪系にからんだり、たまごっちに気をとられて事故を起こしたりと、ああ、人っておんなじことをくり返してしまうんだな、という感じです。そういう意味で、みんなリセットボタンを押して生きているのかもしれません、なんてしれっとまとめて今日はおしまいにします。
*1:あとでも書きますが、確かに大島教授は大脳生理学者にしては、「生き物感覚」「ロボット化」といった、少々学術的に曖昧な言葉に終始しており、内容自体に批判したくなる気持ちはわかります
*2:この大島教授の発言自体は、ネット上でこれ以前にも発見できます。
少年犯罪、度重なるゲーム - 二次元裏may@ふたばログ保管庫 ふたろぐばこ
Responses to Essays on Japan & World (20)
2014年と1998年のものですが、そちらにはどちらも「現実感覚が正常に~」の文言が入っています。ツイート主さんが読売を直接参照したのか、他の何かを参照したのかにもよりますが・・・ただ、個人的にはこの一文があろうがなかろうが、内容はそんなに変わらない気もします。しかし、引用者が意図的に抜いたのであれば、それは改ざんであり、何らかの主義主張を忍ばせるための悪手です
*3:この記事は一応「討論」の体裁で、久田恵というノンフィクション作家の意見も載せていますが、個人的にはそちらの方が現実的かな、と思いました。彼女は、「人間関係の希薄さ」が子どもたちを追い立てているというより、人間関係が「濃密過ぎる」から、そういうゲームが流行るのではないか、と書いています。ゲームだけに没頭することはよくないとはしながらも、「それはゲーム本体とは別次元の問題」であり、これから発展していくテクノロジー社会に、どう社会がサポートしていくか考えるほうが重要だろうと説いています
*4:という内容を読んだと思うのですが、残念ながらメモを処分してしまいました。確か『胎児からの子育て (みんなの保育大学)』だったと思うのですが・・・
*5:未確認ですが、当時の説明書には「リセット」は「たまごっち星に帰す」とあったそうなんですが、ホントでしょうかね
*6:今回は新聞記事しか読んでいないので、ここらへんの「たまごっち論」は、もう少し補強される必要があると思います。あとはゲーム史と教育論みたいな観点とか。