私はいろいろなことがとても気になるのですが、最近気になっているのはこの話です。
NHKで「もつれ」が「痴情」や「男女」の枕詞を想起させるため放送禁止用語になってて、そのせいで「量子もつれ」という言葉が言えなかったらしい クソ面白い
— なの@めざせぷろ。 (@54nano_fairy) June 13, 2018
これはさすがに与太話じゃないのか、と思って調べてみたのですが、意外にそうとも言い切れなさそうな可能性がありましたので、調べたところまで記事にまとめました。人によっては結論としてもいいじゃないかと思うかもしれませんが、私は慎重な方なので、あくまで広く情報を求める記事だと思ってください。
「もつれる」は放送禁止用語ではなさそう
いわゆる「放送禁止用語」*1にあたるかどうかは、全く公式的には発表されておりませんので*2、そもそもこの話自体の信ぴょう性を確かめることが非常に困難です。
少し手掛かりになりそうなのが、NHKの『新用字用語辞典』です。
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2008年のNHKハンドブックによれば*3、
・用語は、NHK編『新用字用語辞典』および『NHKことばのハンドブック』に準拠する
「NHK新放送ガイドライン」P11
http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/bc-guideline/pdf/guideline.pdf#search='NHK
とありますので、NHKは基本的に放送するときはこの辞典を準拠することになります。
2004年発行の第3版には、
もつれる〔×縺〕*4
『新用語用字辞典 第3版』P557
と、動詞の「もつれる」は存在していました。しかし、名詞化した「もつれ」は項にありません。また、複合語的な「もつれこむ」の項もありました。まあ、スポーツ関係だったら、「試合は終盤までもつれこみ…」とかありますもんね。じゃあ「もつれ」も使っていい、ということになるんでしょうか。
うーん、でも動詞があったからいって、その名詞的あつかいもOKなのかどうかは不確かです。たとえば、似ている語の「ほつれ」に関しては、
ほつれ〔▲解〕*5~毛。
ほつれる〔▲解〕
前掲書 P517
と、こちらは動詞・名詞的用法の2つとも掲載されています。 他にも「慣れ・慣れる」「晴れ・晴れる」なども同様にどちらも掲載があります。
しかし、「照れる」は掲載されていても「照れ」がなかったりするので、これだけで判断はできません*6。
他のNHKの資料について
NHKの『新用字用語辞典』はいくつか版が存在しますが、第2版(P557 2001)、第1版(P476 1981)とも、「もつれる」は、全く同じ形で掲載されていますが、「もつれ」の記載はありません。また、新になる前の『用字用語辞典』の第2版(P492 1973)も同様でした。
もう一つ、放送の際の言葉の基準だとされている『ことばのハンドブック第2版』も確認してみました。
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こちらは、言い換えが必要であろうという言葉を五十音順に並べて解説している本ですが、「もつれ」の項目はありませんでした。
私が調べられた中で唯一「もつれ」の記載があったNHK関連書籍は、『NHK日本語発音アクセント辞典』です。
こちらは、2016年版、1998年版どちらにも、「もつれ」の記載がありました。
『NHK日本語発音アクセント辞典 新版』1998 P918
『NHK日本語発音アクセント新辞典』2016 P1358
現在、NHKのガイドラインによれば、放送の言葉についての準拠の中にこの発音アクセント辞典も含まれているので*7、2016年時点では「もつれ」については、特に放送禁止用語でもなんでもなさそうだ、 というのがまあ言えるんじゃないかと思います。
気になるのは1998年版にも掲載されていることですが、これが果たしてどこまで放送に適用されていたかは不明です。昔はガイドラインの準拠の中にも含まれていなかったわけですし。
2014年以降は使用されている
既に指摘されていることですが、現在「量子もつれ」という語はNHKでは使用されているようです。2017年の記事。
量子テレポーテーションは、「量子もつれ」という、20世紀最大の物理学者・アインシュタインを悩ませた量子力学に特有の現象を利用して行われます。
実際の放送が元になっている記事ですが、果たして放送時にも「量子もつれ」と表現したかどうかは不明のため、こちらも保留つきにはなります。ただ、前述したように、発音アクセント辞典に掲載されていることを考えると、特に問題はないものと思います。
もう少しさかのぼって調べるために、「TVでた蔵」を使って、「量子もつれ」に話題がでそうなNHKの番組をピックアップします。
すると、2014年3月22日に放送された以下の番組が引っかかります。
番組は、いわゆる「超常現象」と呼ばれるものに科学的なアプローチをしていく、というものですが、「テレパシー」のコーナーに、「量子もつれ」の言葉が出てきます。人の意識に量子が絡んでいるのではないか、という研究についてです。
実はこれと似た同期現象が、最新の量子の実験により、科学的に確認されているのです。「量子もつれ」と呼ばれる現象です。
というわけで、2014年の時点*8では、「量子もつれ」はNHK的には使用してもよかったわけです*9。確実に言えそうなのは、少なくとも2014年以降は「量子もつれ」は放送禁止用語ではない、ということでしょう。
2006年では使われていない?
さてこれ以上調べることはなかなかに難しいですが、元ツイートには色々とヒントがあります。まとめると、
①東大の古澤明教授の講義の中での話
②最近というほどでも大昔というほどでもない
③たぶん科学番組
とのこと。古澤明教授は量子力学の最先端を行ってる人ですから、ただの与太話と片づけるわけにはいきません。NHKと古澤教授、という感じで調べてみると、おお、昔プロフェッショナルに出ておられたんですね。
第6回 古澤明(2006年2月14日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
2006年2月14日の放送です。お、「最近というほどでも大昔というほどでもない」時期ではないでしょうか。もしこの放送の中で「量子もつれ」という言葉が出てくれば、確実に2006年以降は「もつれ」は放送禁止用語ではありませんし、そもそも、「量子もつれ」が全国的なニュースに登場するのは2000年代前半からなので、この話自体の信ぴょう性が低くなってきます。
というわけで見てみますが…
出てこない!
このプロフェッショナルは当時、「量子テレポーテーション」の研究においてトップを走っていた古澤教授にスポットをあてたもので、そもそも「量子テレポーテーション」を説明するのに、「量子もつれ」の話は不可欠だと思ったのですが、なんと一度も「量子もつれ」という語は出てきませんでした。「量子テレポーテーション」について番組内で説明されたのは以下の通り。
アナ:SF映画に出てくるテレポーテーション、本当にできちゃったんですか?
茂木:物質は動かないんですけど、目に見えないミクロな世界、量子というもので、情報が瞬間的に伝わっちゃうんですね。そのような画期的な現象を、世界で初めて検証した方なんですけど(後略)
私は全く「量子テレポーテーション」について詳しく知らないので、上記の説明がどの程度正確かはわかりません。しかし、少なくとも当時は、「量子テレポーテーション」を説明する際に「量子もつれ」は必要だったかと思います。
例えば、古澤自身が書いた読売の2002年5月28日の連載記事には、量子テレポーテーションの説明として、電子などの状態が実際に観測するまで確定しないことについて、「「量子もつれ」という奇妙な現象」という文言を加えています*10。
また、当時のほかのメディアを見ても、
量子テレポーテーションを生み出す基になるのが、「量子もつれ」と呼ばれる現象
読売 2004年9月29日 P35
量子テレポーテーションでは、「量子もつれ」という原理で絡み合った2個の粒子のうちの一個に、第3の粒子をかからわせると、第3の粒子の状態が量子もつれにあった残りの粒子へ移る
朝日 2004年6月17日 P2
と、必ず「量子もつれ」の言葉を加えています。
プロフェッショナルの内容は、古澤の考えや研究の方法に主眼を当てているため、量子テレポーテーション自体の説明はほとんどないのですが、それでも、「量子もつれ」という言葉が全く出てこないことには少々違和感をおぼえました。
NHKの放送原稿を検索してみる
うーん、そうするとやっぱり「もつれ」は放送禁止用語なのか…と傾いてきたワタクシですが、もう一手たくらむならば、NHKの実際のニュース原稿を検索できるといいわけです。なかなかいいサービスがあります。
G-Searchデータベースというもので、お金は多少かかりますが、1985年1月からのNHKニュース原稿の見出しおよび本文について検索をかけることができます。今回は身銭を切って調べてみました。
すると、「量子もつれ」でヒットするのは数件。しかも2017年とごく最近です。内容を載せたいのですが、それは規約上できないので、ご勘弁ください。
ところが、別の名詞化した「もつれ」で調べると、かなりの件数が出てきます。それこそ、1980年代から2000年代にかけて、男女間のもつれであったり、別れ話のもつれであったり、まんべんなくニュース原稿としてあがってきます。本当は内容を逐一載せたいぐらいなのですが(本文は1件100円もかかるんですよ!)、それは無理なので私の言葉を信じていただくか、ご自身で会員になって調べてみてください*11。
となると、今回のツイートの話の真偽はわからなくなってきます。これほどまでに引っかかると、「もつれ」が放送禁止用語であったというのは信じがたいです。ただ、自粛している用語が公表されていない以上、断言はできません。中には短期間だけ放送禁止用語として認められていたものもあるかもしれません。なので、一応、今回の話は「情報求む」として、幅広く皆様におうかがいできればと存じます*12。
今日のまとめ
①NHKのガイドラインに定められている『用語用字辞典』には「もつれる」の項はあるが、「もつれ」はない。
②しかし、同じくガイドラインに定められている『ことばのハンドブック』に「もつれ」を言い換えるような項はない。
③『発音アクセント辞典』には、どの版にも「もつれ」の項があるが、これがどの程度放送に準拠していたかは不明である。
④実際の番組では、2014年のNHKスペシャルで「量子もつれ」という言葉を使用している。
⑤今回の情報源である古澤明教授の2006年のプロフェッショナルでは、量子テレポーテーションの話題にもかかわらず、いっさい「量子もつれ」という言葉が出てこない。
⑥G-searchによるNHKニュース原稿の検索では、「量子もつれ」の語は最近のものが数件しか出てこないが、通常の男女間の「もつれ」などについては、1980年代から2000年代まで幅広く原稿に記載されており、長く放送禁止用語だったとは考えにくい。
⑦NHK側が放送禁止用語の一覧を出していない以上、上記の話は推察の域を出ず、幅広く情報を求むところである。
私の個人的な見解を申し上げるなら、NHKスタッフが、古澤教授に対して、放送禁止用語という形ではなく、「放送するには(視聴者の理解的に)適切でないかも」ぐらいの意味合いで、「量子もつれ」という語の使用に難色を示した、ということではないかと思います。
そもそも、量子テレポーテーションがニュースソースにのりはじめたのは2000年代前半。プロフェッショナルの放映は2006年なので、世間的にはあまり知られていない分野だったといってもよいでしょう。そういった状況の中で、「量子もつれ」という専門用語が、どれだけ視聴者に正しく伝わるのか、というところにNHK側は懸念をもったのではないでしょうか*13。場合によっては、「もつれ」にネガティブな響きを感じたかもしれません。「もつれ」が放送禁止用語だったわけではなく、「量子もつれ」の専門用語の響きが、NHKとしては放送の難しさを感じ、それを古澤教授に伝えたところ、「禁止されている」という風にとらえた、なんて推理はいかがでしょうか。
今回の件で、いわゆる「差別語」や、それにかかるメディア側の言い換えなどを調べてみましたが、なるほど、「ポリティカル・コレクトネス」という語は日本においてはごく最近出てきた表現かもしれませんが、昔から浮き沈みのある分野だったのだなあと思います。その意味で、NHKなど各メディアがもつ「放送禁止用語」の一覧は、歴史的な資料としてはとても価値のあるものだと思います。世間というものが、その時代時代において、どんな言葉を「差別語」としてとらえてきたかがとてもよくわかるので、日本におけるポリコレの変遷が如実に表れてくるのではないでしょうか。ぜひどこかのタイミングで、関係者には考えてほしいものです。
これは蛇足ですが、差別語の管理が究極的に進んだ社会のSFとして、『折りたたみ北京』の「沈黙都市」がおもしろいです。言語を禁止するのではなく、使っていい「健全語」を定めるという設定がよいです。
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*1:
この語は公式的な言葉ではありませんが、便宜上、今回の記事ではこちらを使用させていただきます。
*2:
ネットを検索すると、「放送禁止用語一覧」みたいなサイトはいくつも見つかりますが、その真偽には疑問符がつきますので、本文では省きます。念のために
などのサイトを検索しましたが、「もつれ」についてはありませんでした。
ただ、一部の言葉については司法の場で公にされています。
*3:
ちなみに、2015年版では
『NHK漢字表記辞典』『NHKことばのハンドブック』および『NHK日本語発音アクセント辞典』に準拠する。
「放送ガイドライン2015」P14
https://www.nhk.or.jp/pr/keiei/bc-guideline/pdf/guideline2015.pdf
とあり、「新用字用語辞典」は外されています。これはおそらく、第4版が出ていないためのものと思われますが、後述するように、「もつれ」の話は2000年代の可能性が高いため、記事本文では時期的に近いガイドラインを使用しました。
*4:この×は、漢字が使えない、という意味です
*5:▲は表外音訓を示しています
*6:ただ、圧倒的に、動詞・名詞化コンビの両方掲載率は高いので、「もつれ」だけが掲載されていないのは気になるところです。
*7:脚注3参照
*8:年度としては2013年度なので、もしかするとそこまで含むかも
*9:
ただ、ニュース放送とドキュメント番組で用語の使い分けがある、となってくると、もうお手上げです。
*10:読売 2002年5月28日 P31 「知を創る」
*11:
調べるときは、「もつれ」だけで調べると何千件と出てきてしまうので、NOT検索でうまく動詞化したものを抜いてください
*12:
あと、このG-searchの結果は、ほんとうに実際に読まれた原稿なのか?というところも私にはよくわかりませんでした。WEB用のものと放送用の原稿が違うことはあるので…
*13:NHKが全国放送的に量子テレポーテーションの話題について放送し始めたのもここ何年かです。古澤教授の名前も、ニュースとしては最近になるまで取り上げられていません